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いい加減『山月記』を終わらせたいので、次には、「健全性」を多少云々して、この間たまたま目にしたフェミニズムへの誤解(と私が思うこと)の理解の仕方を提案して、それから、、どうしたものだろう。やめておいたほうがよいだろうか。わからない。

大本の結論は最初から言っている。
山月記』を増淵から理解しても(おそらく、デューイの影響を受けた大正新教育に依拠する。)、増淵のターゲットであった荒木(おそらく、社会主義リアリズムに依拠する。)を否定しても仕方がなく、そもそも中島が耽美主義なのだから、そこに漢詩があるなら素直に漢詩を読めばよいではないか、ということであった。
要は、「芸術のための芸術」を謳う芸術至上主義である。そこに人間的意味を見出す必要があっただろうか

認識や倫理の領域ではなく、美的領域、すなわち芸術それ自体の活動に価値を見出す芸術観(芸術至上主義)のこと。

芸術のための芸術 | 現代美術用語辞典ver.2.0

一方で、永井荷風谷崎潤一郎正岡子規上田敏森鷗外らのほぼ全作品を読むなど読書にも熱中した。そしてポーやボードレール、ワイルドなど欧州の耽美派を概観しつつ近代日本では自然派に対抗し耽美派と呼ばれた谷崎を論じた「耽美派の研究」と題する卒業論文に備えた

中島敦 - Wikipedia

要は、ある種の非リアリズム文学である。
戦後教育はこのようにして道徳を伏流させてきたのであった。
完全に道徳を排除すると、👇の『プログラマの数学』の主張となる。
でもそりゃドイツ人が始めたことだ。ドイツ人は世界中に思想教育をおこなっただけである。イギリス人もだけれど。そしてアメリカ人もだったりする。
それだけのことである。
このとき、じゃあ日本人もと考えると、それはすでに系統化されてしまっているだけであるが、そういうものだと思う「ものさし」はあった方が見通しが良い。
それが〈芽〉と〈鏡〉である。二系統あるのがミソであった。
そうやって、「近現代史」を振り返ると、特に日本の場合、主体主義ーある種の英雄主義であるがゆえに講談調であることが見えてくるのであった。
なるほど、新しい講談に過ぎない「司馬史観」が喧伝される理由がある。

 👇はすごく面白いけれど、そういった意味で、面白過ぎる。それが悪いワケではないが司馬遼太郎陳舜臣ほどこなれていない印象を受ける。

韓国がノーベル文学賞を取れないのはそこらへんに理由がないかね。
村上にしたところでとれてないが。
或る人を推薦しても、スウェーデン人にそれを検証させるための論文が或る程度必要だが、論文にはそれ相応の学統に沿った語彙が要る。
なんとなく「いいなぁ」では説得力が弱いようである。
その点村上文学には常に並走者が居ることがアドバンテージとなっていたのであったのだが、肝心の村上がどうもよく理解できていないのでないかと訝しくなるのであった。日本人が勝手に「世界文学だ」と日本の中心で叫んでもほとんど意味がないと思うが。
別に村上だけを腐したいわけではない。

 西田が「論理」と嘯いてカントを批判してもほとんど響かない様ににている。

批判したら系統化されるに過ぎないが、そういった意識が乏しいように思う。
西田は相変わらず日本の古典的(漢学的、和学的)な意識に居たのであって、それを対比させたいと切望していたことまではわかるが、いかんせん、系統化して回収される大本の西洋哲学を理解していたかどうかが怪しいのである。
それがカント批判である。
ヘーゲルはその点素直で「何か新しいことを言いたいが思いつかない」と白状するのであった。
「自我」などと言ったところで、要は翻訳されているだけであり、日本語の語彙で日本語の心情を露露しているだけであるので、果たして「西洋人」に伝わっただろうか、ははなはだ怪しいのではないかと勝手に思っている。
その点、 新渡戸は優れていたと思う。『武士道』の内容の真偽はともかく、何を伝えるべきかはわかっていた。新渡戸が台湾で後藤の下で優れた政策を進め、エスペラントの普及の代表になる所以である。「わかっている」のであった。

1906年明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。同年、牧野伸顕文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるトーマス・カーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。 

新渡戸稲造 - Wikipedia

1862年文久  2年) 誕生。
1884年明治17年) 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
1886年明治19年) クェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢う。
1900年(明治33年) 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)初版出版。
           パリ万国博覧会の審査員を務める。
1903年明治36年京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。
1906年明治39年) 第一高等学校長に就任。東京帝国大学農科大学教授兼任。

wikipedia新渡戸稲造』より抜粋) 

そう考えると、新渡戸の登場は時代の画期を為したのかもしれない。
留学しても(美濃部)、留学しないならなおさら(西田)、そのような者たち幅を利かせ、反対に「わかっている」者たち(穂積、上杉)が苦杯をなめる状況が一掃されて、「わかっている」者たち(田中、  )がリードする時代の幕開けだったのかもしれない。それは明治革命の特殊性かもしれない。後から中身を充実させる必要があったのだ。
ただ、それと同時に「大正デモクラシー」があったのだから面倒だ。変わり目の仇花という面も間違いなくあるが、「仇花」に見えるだけかもしれない。「大正デモクラシー」では維新前の近世の充実が近代的方法で華開いたが(地方における金融資本、商業資本、産業資本の興隆)、別に、それが「右傾化」を妨げなかったのは、そもそも妨げるようなことではなかったからであった。「大正デモクラシー」を理解するには「表解」(量の公平)を求めた方がどうもよいようで、英雄に代表される「読解」(シンボルの意味)を求める必要はないようだ。

そういった不可思議な様子は、戦後の板倉や、増淵、或いは、吉本隆明にも見られるだろうか。

 

P252 『APLの健全性を示せ』

 ラッセルとフレーゲ

 妥当性と健全性

 P25  『「論理は、冷たくて機械的で融通が利かない」(略)でも、だからこそ私たちの役に立つのです』(👇)これはこれは実はリスク負担の問題であって、表現型(主体)から要素型(主語)へ移行したときからあって、もともとは「実証主義」とは何かに関わる「実証主義は悪法を排除するか(問題)」だったのである。