ティムシェル

 

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村上春樹の言葉を、実証主義を頼りに、増淵/荒木の国語教育観から考えている。

 

表1:系統主義と経験主義の教育課程

 
長所
短所
日本の教育における出現
系統主義
(教科カリキュラム)
文化遺産を系統的に学べる。
構成が簡単で評価もしやすい。
長い伝統があり教師も慣れている。
教科書中心、理解より暗記になりやすい。
知識注入に偏り、社会性の育成・創造性の伸長を忘れがち。
明治期から戦前まで
教育内容の現代化
基礎基本重視
学力低下
経験主義
(経験カリキュラム)
学習者の興味・問題から出発するので学習活動が活発で効果的になる。
生活の場に密接に結びつく。
自主的学習が民主的価値を発展させる。
現在の問題に関心が集中し、 文化体系の習得が困難。
社会・文化の変化への対応が遅れがち。
学校や地域社会の体制が適切に整えられにくい。
戦後の新教育(社会科)
生活科
「新学力観」
総合的な学習の時間

 ※長所と短所は、田浦武雄(1986)「教育学概論」放送大学振興会、p158-159をまとめた。

【第11回】教育学の2大潮流(1)系統主義と経験主義 ~はじめに~
系統主義と経験主義の教育課程 - 教授システム学専攻 - 熊本大学

増淵恒吉国語教育論における「課題学習」の意義と限界 : 東京都立航空工業高等専門学校時代の授業実践を軸に
後藤 志緒莉
早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊 (28) 155 - 166 2020年

後藤 志緒莉 (Shiori Goto) - マイポータル - researchmap

増淵は「主体」の形成を企図する授業を標榜しつつ、「科学的」(帰納的ーアンケート調査によると)むしろ、標準的な系統学習に終わったようだ。

村上は荒木に近づくはずだ。「∃()」のため、何が話されるかではなくどう話されるかの当事者性が本質だった。したがって、「話されない」ことによる排除の問題がつきまとった。

 話されないことは本当に「ない」のだろうか

ここにひとつのアメリカらしい、保守的な物語がある。『グレート・ギャッツビー』と同型の価値を胚胎しているはずだ。
『グレート・ギャッツビー』は第一次世界大戦後、道徳的価値を否定する運動であるシュルレアリズムが立ち上がったとき、「「キリスト教」が社会事実であることを実証するため」にそこにあったはずだ(実証主義 - Wikipedia)。
同様に、第二次世界大戦後に、ここにあるはずの物語である。

本作は聖書創世記4章のカインとアベルの物語をモチーフとしているが、中でもプロット上、重要な役割を果たすのが英語訳聖書の翻訳間の異同である。本作は欽定訳聖書(King James Version / KJV bible)とアメリカ標準訳聖書(American Standard Version / ASV bible)が創世記4章7節の最後の部分で異なった訳であることを利用し、登場人物にこの部分についての新しい解釈を語らせ、大団円に向けた伏線としている。

欽定訳

If thou doest well, shalt thou not be accepted? and if thou doest not well, sin lieth at the door. And unto thee shall be his desire, and thou shalt rule over him.

アメリカ標準訳

If thou doest well, shall it not be lifted up? and if thou doest not well, sin coucheth at the door: and unto thee shall be its desire, but do thou rule over it

太字の部分がこれらの訳では明らかに異なった意味となっている(KJVでは「あなたは罪を治めるだろう」、ASVでは「あなたは罪を治めなければならない」)。

 

エデンの東 - Wikipedia

なお、thouは二人称で今ではyouに統一されたが、指示対象へのニュアンスの違いがあったのは、シェークスピアで見た。『ハムレット』『ロミオとジュリエット

azu-mir.hatenablog.com

fmkn.hatenablog.com👇元々のハナシ

www.biblegateway.com

blog.livedoor.jp

ja.wikipedia.org

神:どうしました

妻:夫がフリンをしまして

神:気をしっかり持ちなさい。嫉妬、仕返し、自暴自棄に陥ってのWフリン、暴飲暴食はおやめなさい。鬱にも気を付けなさい。

ティムシェル

レビ記 - Wikipedia

芸能人の不倫報道に無関心で良いだろうか。
フランス人はそれでよい。
ライシテを持つフランス人は不倫をしても慰謝料を払わなくて済む。
以前は違った。法の「廃墟」だけ残っている。
フランス人に選択肢はもはや用意されていない。
「不倫を「悪い」と確認すること」と「不倫した人を責めること」はおのずと異なる精神作用に基づく社会行為なのだ。
神に頼らない「許し()」の作法である。日本は最初からポストモダンだったので、モダン特有のキリスト教との距離感に悩まなくてよかったのだった(日本におけるキリスト教の受容は、「上からの近代化」に後から追いつこうと内容を充実させていったらしい。だから、近代化の二大思潮を形成した中で挫折して社会主義者への転向という独特の様相を見せる)。現在の「母権」も戦後の(裁判所内部の)女権運動に端を発する。

 

社会主義リアリズムについて。スタニスラフスキー・システムが絶賛されたらしい。

スタニスラフスキーが言う「魔法の<もしも>[18]」とは、虚構の状況に自身を置くことを想像し、その状況に直面した時にどういうアクションをとるかを構想する能力である[19]。

スタニスラフスキー・システム - Wikipedia

劇作家や演出家などが準備したもろもろの設定は<与えられた状況>と呼ばれ、これは「<もしも>という言葉と同様に、前提であり、<想像の虚構>[20]」 である。このアプローチでは、ある人の状況によりその人の性格的特徴が決定づけられる[21]。

(同上)

感情に対する記憶は、かつて味わった感情を思い出しその感情の記憶に身をゆだね演じる時は素晴らしいフィルターで、われわれが記憶している感情を浄化する偉大な力を持っているというものであった。

(同上) 

戯曲などを「断片」に分け、そこから「創造的課題」を抽出することが重視されており、「内面的な、行動の課題」を適切に設定する 

(同上)

ソビエト連邦社会主義リアリズムの機運が到来すると、モスクワ芸術座とスタニスラフスキー・システムはその模範として賞賛されるようになった[45]。

(同上)

👇村上春樹の読者のことだろうか?

伊東貞助はリアリズム論の系譜に連なっているといっていい。それは「大衆の生活と闘争との接触」だけを指標とした、あくまで差異論的で関係主義的な戦略ー系 corollaryーであり、主題や様式、形式の自立性については二義的な態度を保持することなのである。そこに期待されているのは、あくまでその読み手、観客が主体へと生まれ変わることなのだ。大衆であると同時に作者、作りてであること。農民であると同時に創発的な主体であること。新吉と寛次はそうした形象である。プロレタリア文学を経由することによって、貞助はリアリズムの創発的次元に触れることが可能となったのである。

1930年代農村再編とリアリズム論争--久保栄と伊藤貞助の作品を中心に
友常 勉
Quadrante : Areas, cultures and positions = 四分儀 : 地域・文化・位置のための総合雑誌 : クァドランテ (11) 2009.4 p.133~162

何が言いたいかよくわからないが、社会主義リアリティーの最初は、ゴーリキーの『母』であるらしい。
写実主義自然主義になって、プロレタリア文学が来てから、社会主義リアリズムになるらしい。村上春樹の『大きな木』の real はどれだったのだろう。
すくなくとも、「原訳通り」であるのは、社会主義リアリズムではないのか?
フツウに訳せよ、それくらい。not true だね。
結局「エモい」しか生んでないと思うけれど。
ちなみに、島崎藤村は親子ともども、近親者と愛人関係になっている。そういう「現実」は見なくて済んだらしい。「清算」すればなくなるハナシだからである。

 👇ヒッピーのリアルで検索したら出てきた。

 『大きな木』のリアルはどれだったのだろう?