洗礼名はトマス・アクィナス

いよいよ「刑法の時代」ですよ、ということで、準備。

文学教育理論の検討(1) : 形式・内容軸と一義・多義の二軸を通しての分析
国語教育思想研究7号 PP14-21,2013-10-01,国語教育思想研究会

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瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーに倣って国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。その立場は佐伯千仭中山研一平野龍一らに継承されているが、瀧川の刑法理論は、当時の左翼的・マルクス主義的な思想を背景に、階級対立社会では、罪刑法定主義が厳守されなければ、刑法が階級抑圧の手段とされてしまうとして客観主義を強調するもので、このような立場からは、社会防衛・主観主義を強調する牧野英一らの新派刑法理論が批判されるのは当然のことながら、同じ客観主義を主張する小野に対してもその道義的責任を強調する国家主義的な刑法理論は批判されることになり、このような反国家的な思想が危険思想とみなされ後に滝川事件を引き起こすきっかけとなった。

瀧川幸辰 - Wikipedia

アリストテレストマス・アキナスを経た新自然法論を支持し、フランス法学に親和的な立場であった。梅が学んだフランス法の註釈学派は、自然法論を前提としつつも自然法が革命の原理たり得ることを否定し、一般意志によって表明された制定法こそ自然法であり、法律の解釈は、立法者の意思の探求とその演繹による体系化による法典の注釈にあるとしていたが、梅は、深淵な観念論を嫌い、制定法の枠内で実質的に妥当な解決を速やかに示す実務型の学者であった。穂積陳重は、梅の自然法論について、「現行法の規定中に自然法の根拠を求めて居るのであるから、本当の意味での自然法ではない」と評している[20]。人為の成文法に根拠を求めるとするならば、それはもはや自然法ではないからである

梅謙次郎 - Wikipedia

赤字強調は引用者。

平野龍一博士の刑事実体法論 — そのイデオロギー的背景について
村井 敏邦
刑法雑誌 45 (2), 308-320, 2006 日本刑法学会

富井政章 - Wikipedia

穂積陳重 - Wikipedia

宮城浩蔵 - Wikipedia

大場茂馬 - Wikipedia

牧野英一 - Wikipedia

小野清一郎 - Wikipedia

瀧川幸辰 - Wikipedia

そして、「主役」の団藤。 

団藤の思想の根本にあるのは「主体的」な人間の存在である[12]。人間は権利義務ないし法律関係の主体として、その立場から法を捉える点で主体性を有すると同時に、客観的な法を動かす原動力でありかつ担い手であるという点でも法において主体的であるとする。団藤によれば、罪刑法定主義の根拠や刑法が自己の責任に帰することができる場合にのみ刑罰を科する責任刑法であることも、根源的には人間を主体的に見ていくで根拠付けられるものとされる[13]

團藤重光 - Wikipedia

わかりにくいが、主語/主体の分離のよる二元論(おなじみ〈鏡〉)を謂っている。
その彼が、最高裁判事に就任して実務/理論の統一の困難或いは非統一の必要を経験し、晩年には洗礼を受け自然法を受け入れるのが、刑法の混迷を象徴していて興味深い。
刑法というのは「なにを言っているか見当がつかない(つきにくい)」学問の最たるものであると思うが、団藤を見ると「なるほどそれはそうだろう」と思う。 

 

一方、積極的一般予防論とは、一般民衆が犯罪を行わないのは刑罰が怖いからではなく犯罪になるような行為をはしていけないことだと考えているからであるとして一般民衆の規範意識に信頼を置き、この一般民衆に共有している規範そのものを維持することが刑罰の機能であり、犯罪者を罰することで一般民衆の行動を自制させ、将来の犯罪の実行を予防するという考え方である。

目的刑論 - Wikipedia