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渡部の主張はまさに「言葉の宝庫」で、もちろん582頁も書いているのであるから、相応の文字数であるが、当時の庶民の理解がどのような言葉を伴って現れるかの実証的事実の宝庫である。
たとえP389に『自由主義(デモクラシー)』と出て来る。イマの感覚から言うと、デモクラシーは「民主主義」じゃないの?ということであって、もちろん、吉野作造はそれを使えないから1914(大正3)年に「民本主義」といったのであって、1922(大正12)年に渡部が知らなかったとは考えにくい。
福沢の弟子の中津藩士小幡篤次郎がトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』をどう翻訳したか。
「近代社会」という現実があって、社会の規範の中で各人が採り得る態度があるとき「自由主義」と呼んだようで、その「自由主義」を与える近代社会を規範の総体としての制度と理解して「デモクラシー」と言っているようだ。
要は、デモクラシーというよりモダニズムなのだが、日本人の典型的なモダニズム理解なのである。すなわち、キリスト教(支配)から考えていない。「我々の」社会であることが、幕藩体制のねじれの解消に依って、自然視されているのではなかろうか。
そもそも庶民であるから、どっちつかずで深刻に悩む必要がないのだ。だからエリートである吉野がエリートであるがゆえに自己の正統性の〈帰属〉が現前化されたのである一方で、庶民にしてみれば「楽になった」のだから〈帰属〉などどこ吹く風であって、「楽になった」のはよいが、社会道徳として、緩すぎることが(即社会悪かが)実感として問題視されたようだ(仮にそれが実感されれば、論証不要の、「言うまでもない」ことである)。社会維持への本性である。
そうであれば、エリートと話が噛み合わないが、自己認識では、『カントをかつぐ譯ではない』ほど衒学的ではない(がもちろん学問に通じている)のである。
庶民ならではのこういった機微が痛快である。
なぜなら、これはすなわち、(大衆)演芸(と、おそらく、同じ原理)だからである。
どれだけ読んでもなかなか理解しづらいのは、渡部が「論敵」を批判するときには『合理的に論ずる』べきだと言うわりに、それは渡部にしても同じなのだが、渡部はおそらく実感からそれを言っており、すなわち「実感を伴って納得できるように整然と言葉を尽くせ」と言うのであるが、その「実感を伴う」ことが具体性を指しているならそれを以て「合理的」と断ずることはできないのは応用数学を考えれば当然だが、その実感が如何なるものか知れないと言葉にならないのだ。
しかし、晩年になると吉野は無産政党関係者とかかわるようになり、その時点においては民本主義という語をやめ、デモクラシー、民主主義と表現するようになり、政治スタンスはオールドリベラルから社会民主主義的なものへと変化している。
いわば、元祖「無敵」論法であるが、芸は在る。
庶民が美意識を求めるとき、法(抽象的操作)は要らない。芸があれば十分であることを示して、誠実である。術(具体的操作)が過ぎれば鼻白む。
庶民を喜ばせたその芸を見ようではないか(八大教育主張批判は人気コンテンツだったようで、大正10年9月に出した『現在改造的教育主張批判』は版を重ねて大正13年6月に15版になったそう。『これは一版1,000冊として1万以上』※と皮算用されている。いやそりゃどんぶり勘定か)。
※P82日本大学教育学会紀要 (21)『大正新教育と渡部政盛の教育思想』渡部晶
国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online
①生活即価値批判 生活に理想を
②個性即価値批判 個性に理想を
読めば読むほど「すごい」ので、なかなか読む進まない。
渡部の考える『個性』とは
渡部の考える『主体』とは
渡部の考える『理想』とは
『』(PP67-68)
渡部の考える『主義』とは
『一定の理想に基づいてその思想なり生活なりを律する』
渡部の考える『人情(の自然)』とは
『信じてゐないまでも余程気をつけないとそうなりたがる傾向』(P392)
八大教育主張 - Wikipedia
河野清丸 - Wikipedia
モンテッソーリ教育 - Wikipedia
河野清丸の主張する『自動教育論』は要は「モンテッソーリ教育」であるから、根底にあるのは医学(科学)であって、発育モデルを提示したのであるが、ハナシがまったくかみ合わない。
渡部はこう問う
自分で自分を教育すると云うがその場合に於ける主体と客体は如何
これに対して河野は
理想我が主体で客体の位置を占むべきこと
これを渡部はこう解釈する
理想我が主体であり現実我は被教育者たるべきものである。と云う考えなのである。
したがって、こう批判する
其のようなことを自覚する所がないからである
それを論理主義と心理主義の混乱と評価する。「発育」と「教育」は異なり、「教育」は論理主義を採らなければならないとする。
ここで渡部は「論理主義」と称して「矛盾」を説く。意訳すると、或る個性は、理想によって評価されるが、教育はこの多寡のある二個性間で主客に分かれて展開されるのであるから、この二個性が主客同体(自家撞着)となると、「矛盾」を生じるといいうのである(1)。
そして『自動』というとき「理想」は規範によって構成されるところの規範を無効にするからそこに「理想」もないというのであった(2)。
したがって、それが渡部にとっては『自動教育』であるかぎり「教育」ではないのである。
渡部はまずプラトンとアリストテレスを参照して(主体を明らかにして)から、諄諄と説いて、いかに教育が教育であるかを問うのであった。
なるほど、アリストテレスに近代科学を理解することは無理であっただろう。科学は善を原因としない。
ただこれだとまだ上等な床屋談義であって芸ではない。
渡部の芸が芸であるのは、「意味」を問うからだ。
おそらく、渡部は👇のようなことを言ったのであるが
ライプニッツのアポリアを避けるためには,可能性の中から現実性を取り出すために現 実世界wを導入すれば良い。例えば,〈Aは 真 ⇔wに おいてA=e>という具合にである。 ライプニッツの記号式は本質的と実在的と二通りの解釈が可能なものであった。真偽は 実在的解釈の下に定義出来るのである。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/19/1/19_1_41/_pdf/-char/ja
👇の意味で
「しかし、シュロギスモス体系は現代論理学に比して、重要ないくつかの特徴をもっている。第1に、それは名辞論理学であり、命題論理学を欠いている。第2に、そこで扱われる命題は量に関しては全称と特殊に限られ、単称命題は排除されている。したがって、命題の主語・述語となる名辞はすべて類・種(普遍)を表わす一般名・・106 辞であって、個体を表わす個別名辞ではない。第3に、その体系内の名辞として関係名辞は現われることができないので、それは関係を述べる表現を取扱うことができない。第4に、それら一般名辞が表わす類・種に属する個体が存在する(いかなる名辞も空ではない)という存在仮定が、暗黙のうちに当然のこととして認められている。以上の点で、現代の述語論理学ほど多くのことを証明できないのである」(浅野[1977→2011:106-107])
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/9RW/ro_logic.html
種村 剛(TANEMURA Takeshi)
「関係」に循環を入れたのではないかと思う。 そうするとこではじめて「教育」を構成できたのだが、実は渡辺が「矛盾」と呼んだのは渡辺自身の「矛盾」だったのだが、それを「自家撞着」としなかったのは、それを積極的に「意味」と認めたからだろう。
アリストテレスは人間に卑近な感覚される事物を重んじ、これを支配する諸原因の認識を求める現実主義の立場をとった。
渡部の論法はこうである。
Ⅰ ヒトは個性を持っている
個性は規範の表現の多寡である
ヒトは規範の表現の多寡を持っている
ある人は規範の表現が多/ある人は規範の表現が寡
Ⅱ ヒトは規範意識を持っている → ヒトは個性を持っている
(個性を持たずに規範意識を持つことがない)
Ⅲ ヒトをヒト()とする【主体化】。
すなわち、Ⅱより、ヒト(規範意識)である。
実は、規範意識は規範(意識)であり、意識は対象への/関係/である。
したがって、ヒト(規範(/関係/対象))。
「教育」ならば、主体と客体であるから、主体(規範(客体))である。
要は、主体とは客体が規範表現を伴って表現されることである。
このとき、Ⅰより、「教育」とは規範の多寡を通じた主〇客/関係/である。
Ⅳ 可能な/関係/が成立するとき「理想」と評価する
Ⅵ 「自動」はを主〇客の可能を持たないゆえに、「教育」ではない。
Ⅶ 主〇主の可能な/関係/は差異を対象化された主体を以て自我・他我である。
すなわち、Ⅳにおいて、理想は規範によって意味づけられ、それは規範を通じた関係で説明されると言っているのでありまた、教育はそのような理想を持つと言っている。
このとき、教育→規範→理想→教育である(規範なきところに教育なく、理想なきところに規範なく、教育なきところに理想なし)ことを主客の/関係/を外挿して構成している。
一方で、『自動』は主客の/関係/を外挿しないから、(そう定義された)「教育」ではなく、差異があれば成立するので、興味本位であっても成立する。
ことを実感を以て説いている。なぜなら、その実感は、社会が規範の総体であることからもたらされるからである。
これは法実証であって、善が現前化するのが渡辺である。
したがって、芸である(渡部自身、最初から、真善美を言っている)。