ねじ巻き頭のクロニクル

 

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下を斜め読みしたけれど。

すごいわけ。行動的指向が。

甚大な被害を出した → 捲土重来を期す

なんだよね。失敗したからそれを振り返るのではなく、ますます意欲を燃やすというこのモチベーションが。

おそらくこれを、我々の目指した国民文学と或る共産主義者が言ったんだよ。
それはおそらく「昭和デモクラシー」だったんだよ。
それは、戦後社会教育の推進者として文部省でカリスマ的なリーダーシップを発揮した官僚が戦前は統制社会の完成者であったことと無関係ではない。
例えば、「高齢者」にしても、戦前乃至戦後の「老人」とは意味合いがことなる。「高齢者」とは福祉の対象者で社会の客体だけれども、「老人」は社会の主体だ。
簡単に言うと、ねじが巻かれている

それが、「大正デモクラシー」の「小僧」と「昭和デモクラシー」の「少年」との間でも言える。
大正新教育は「児童中心」を目的としたけれど、「人間像」から考えた故に達成が実は不可能で、ただ禁忌構造を以て旧制高校の政策上のイニシアチブを師範学校に移しただけのことであった(様相の錯誤)。
それを喝破したのは素人の  で、彼は素人ながらの、それゆえに巷間において説得的な、(ルソーの)「人間観」を主張した(玄人はその急進性を理解していた)。
しかし、時代は大正デモクラシーを経て急速に民主主義の機運が高まり、それまでの素朴な人間像ではなく、より抽象的であるがゆえに包括的な人間観」を求めており、図らずも政策当事者も、それまで馬耳東風を決め込んでいた素人さながらの人間観を採用することとなったに過ぎない。ただし、ドイツお得意の口説を添えて

そのもっとも成熟した果実が「辻文学」である。
これを或る共産主義者は称賛したのであるが、簡単に言うと、共産主義ファシズムは制度的に共通しているのである。

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半藤のような、帝大卒という、(軍閥時代に)遅れてきた学閥エリートが恨みつらみだけで云ったところの『絶対的悪』とは、そのまま共産主義にも当てはまる

というわけで今日は👇

山月記』の標準的読解への疑問(抗議)、すなわち、道徳的読解の暴露に始まった増淵批判は、(a)「戦後」の陰影を映しだすだろうと思う。

aに〔「大正デモクラシー」(の再現)と「社会主義リアリズム」の戦後における対立が「昭和デモクラシー」を対置することで、すなわち、戦前のメインカルチャーとしてのそれと戦後のサブカルチャーとしてのそれをそれらの比較対象として眺めることで、より増淵の企図が彫琢され〕を入れる


ねじれた文になった。