理想的な戦前という嘘

面白いと思いつつ、小泉進次郎は明らかにマスコミ対策を指導されていて、そういう意味では(マスコミに対して)「最強」だけれど、

彼が政治家でかつ当選回数を重ねていることを考えると何かしらの利益は代表しているはずだから、小泉進次郎が揶揄の対象でしかないのは、どうなのだろうと思う。
この国では「表現」でしか捉えられにくいことを示唆するから。

一方で「戦後日本の劣化」と踊るのを見て、そんな事実はあったか不思議だったが、無内容な発言は小泉進次郎が始めたことではないとつくづく思った。

トートロジー」の駆使は、憲法「読解」でわかるとおり、終戦直後、戦前のエリートが始めたことであって※、そういう意味では、「戦後」は(「ゆとり教育」の反対にある)変な教育がまかり通っていたのだとわかる。
※それは宮台が拘るような「変節」と趣が異なる。そもそもエリートが変節してはダメなのか(もともとの意義を考えると、君子豹変すべきでないのかどうか)は一概に言えず、法的な「革命」は意外と普通に(南米のデフォルト並みに)起こっていたし、グランドセオリーを追求することは終戦を境にして変わったわけではなかった。
要は、宮台らは学生運動世代で、それはつまりは、戦後の軍国主義に過ぎなかったのだ(自分たちだけは正しい「パブリックスクール」出身であると嘯くのも、戦前の真似事である)。

歴史学はようやくよい方向に向いてきたのだが、それ以外の文系の学問については、まだおかしな連中が跳梁跋扈しているのかと思うと、げんなりする。

「劣化」するような「戦前」などどこにもない。

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自分は近代史に興味があったので、現在についてはそれほど意識していなかったが、増淵を通し、結局現在の教育に行き着いた。

憲法の時代」「民法(第二憲法)の時代」「商法の時代」「刑法の時代」「マルクス主義法学の時代」で最後だけ(あまりに包括的で)毛色が違うのだけれど※、それで今は👇が一番有力なのだろうと思う。
※「藩閥の時代」「学閥の時代」「軍閥の時代」は時系列に従うが、「憲法の時代」「民法(第二憲法)の時代」「商法の時代」「刑法の時代」「マルクス主義法学の時代」は意味系列であって、法学上のグランドセオリーを取り込んだか否かで判断している。なお、「第二憲法」とは、最初のコモン・ウェルスを形成したポーランド・リトアニア共和国憲が持った「5月3日憲法」に倣う憲法観による。

そう考えると、「マルクス主義法学の時代」は「男の時代」と言ってよいのだろうと思う。それは右傾化から語られることが多かったけれど、その見方は偏っていると思う。
そういった意味でも、近代史はもっとちゃんと語られる必要があると思う。
暴力主義でしかなかった「戦後」が終わって、本当にほっとしている。

ギリガンを「フェミニズム」と言ってしまうと、間違いではないのだが、「ラディカル」と嘯いたところで「正義」と「自由」がモットーに過ぎない人文系から批判されていて、誤解してしまいそうになるが、「小さな大人問題」として捉えると、わかりやすいように思う。

ルターはユダヤ人も子どもも大事に思っていたし、ライバルのエラスムスは「子どもの人権」を主張して大人の人権の普遍性についての再考を迫ったが、或いは、大正新教育は8つもの人間像を提示して、「成人教育」とは異なる「子ども教育」を主張したが、それらが「小さな大人問題」を理論上克服できていたとは思えない。着眼点だけがあったように思う。

それを解決したのはギリガンの「発達」であって、外観上は「自動教育」に似ているがそうではないようで、(渡辺の求めていた)人間観を提示できたと思う。
反対に謂うと、これがないと、どれだけ子どもの利益を代弁しているようでいて実は「小さな大人」の論法に落とし込んでいるに過ぎないのだとわかる(もちろん、その論法が子どもの福祉に適うかどうかはわからない)。
これもリスク問題で、成員リスクが過大なのは、戦後一貫しているのだ。
それは戦前からの話で、宮台が嘯くような「理想的な戦前」などなく、ただ美濃部達吉原敬の「語られ方」で分かる通り、「理想化された戦前」ならあって、しかしそれは「江戸幻想」と通底を為すものであるのは論を待たない(つまり、「ウヨ」と揶揄されるような人たちは、うまくやっている連中の真似事をすることがある)。

ともあれ、ギリガンの語り方や語られ方がまさに「大正デモクラシー」の語られ方に近いものがあって、与謝野晶子が(意味の)表現主義による「デカダン」や「反戦」(結局は、主体主義という実在論)に絡めとられてしまったように、彼女のロジカルな面が見落とされてしまっているのではないかと思う。彼女は、戦後実在論の文脈ではなく(それ自体が政治的なので。)、ギリシャキリスト教社会で連綿と続いてきたロジックの文脈で考えた方がよいと思う。

「小さな大人」と「男を内面化した女性」は同じ問題で、ギリガンが「女性は男性と違う」と言ったのは、「発達」を通してみた「子ども」の方がわかりやすいと思う。それは単に「幼い」ことを意味していないからだ(「幼さ」はルターのー単純比例に過ぎないー強弱の指標に過ぎない。そうすると現にあることだが、奇妙にも反対に「幼く見えても大人」と語る主体に絡めとられてしまうのだ)。