平民宰相を生んだ皇室中心主義

政策としては「皇室中心主義」を唱えていた立憲政友会に対し「議会中心主義」の理念を標榜した※

※ここでいう「議会」とは衆議院のことで、衆議院の優位性を示すものである。立憲民政党貴族院・枢密院と対峙した

立憲民政党 - Wikipedia

原敬を考える際にはこういうことも押さえないとよくわからないというね。
内務官僚の一木喜徳郎は、2・26事件のときに、昭和天皇の相手をしていたというから。

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注目されるのは田中義一で、児玉の腹心だったんだね。引き上げたのはまさに山縣。

田中の政友会招聘を最終的に決めたのは横田であったが、星亨・西園寺公望原敬らの側近であった横田は板垣退助自由党以来の自由主義伊藤博文立憲主義を併せ持つ政友会本流の継承者であり、第2次護憲運動と大正デモクラシー軍縮路線の有力な担い手であったからである。

田中義一 - Wikipedia

こういう書き方だから、👇の結論になるのだろうけれど。
そうじゃねえだろうなって。

田中の没後に起きた統帥権干犯問題における政友会と軍部の連携も、単に立憲民政党への対抗というよりも政友会の変質に伴う「親軍化・右傾化」現象の反映であった。

ロジックを欠くから混乱するんだよね。
板垣にしろ、国会開設は、動員機序として主張したのであって、だから、「皇室中心主義」と別に矛盾しない。伊藤の言った「立憲主義」は憲法である「憲政」とのかかわりで考えないとよくわからない。彼はもともと英派、米派だったのが、プロシア憲法を選んだんだから。ハーバードロースクールに学んだ金子にしても、政治的指向では、あぜああなのか(まさに皇室中心主義)。
原敬にしても、わかりやすく言えば、当時としては、内務省を中心とした国体の一部を担ったにすぎないのであって。原敬立憲政友会から出てきたのはおそらく偶然じゃなかろうということ。

要は、社会主義者共産主義者の言いだした「戦前の歴史」なんて一回ご破算にしないと、政治的ポジション云々ではなく本当によくわからなくなる

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そういった流れを踏まえた政党史を考えると。
菅さんって、吉田・田中派だったんだね。
でも彼は「原敬」になれない事実上「選挙管理内閣」の扱いだったのだろうか(でも現下の状況により選挙ができないから「コロナ管理」になった。)?

田中角栄はそう考えると、「革命的」ではあったけれど、あれは「大蔵省」の「内務省」への「革命」だったのだろうか。大蔵省は終戦時、相当軍部(の組織管理)を研究したらしいから、「藩閥」「学閥」「軍閥」の次は、「省閥(ただし、大蔵省)」だったんだね。

それで、戦後政治の中で、田中派が分断されて、今があると。
皇室中心主義の原敬が議会中心主義※の菅 義偉の、ポジ/ネガ反写したと。
でも、吉田茂はやっぱり「戦前」のヒトだから、どう考えればよいか。
※租税民主主義と予算主査とその効果としての立法審査。
まぁ、言うとる語調は同じやわね。「卒業席次一番が内務省」「キャリア試験一番が大蔵省」。

そうして、自民党はあらためて国体を欠く立憲政友会のような政党になったのか、保守的だというね。国体が何かになるけれど、憲法もその一部だから、改憲に情熱を燃やすのは当然の理か。

なるほど、「色」に惑わされずにそう考えると、すっきりする。