反正論としての女論、反俗情としての俗論

渡部政盛はプラトン/アリストテレスをカントを梯子に繋いだというより、ルソー/フィヒテを繋いだらしい。

彼の「論理主義」は誰の「論理」を指すのだろう?
言語に一家言ある人物が山ほど出て来る。

 

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あまりに長くなったので。まとめると


カミュは革新的ルター主義者で、カミュの「反抗」は、反対系統(回復系統)での受動とは異なり、(動員系統に求められる)ルターの能動を「反対」にした「負の能動」であり、それに「正当」の評価を与えるものである。

スピノザは、(ウルトラ)ルター主義者(二系統論者)であって、ルター的な意味で「一元論」を信奉していたが、それは信条的なプラトン主義で、認識論上は、アリストテレス主義者であった(のはルターと同じで、ルターは異教徒、、、であるアリストテレスも認めていない)。

 〇フィヒテは、スピノザのような汎神論者ではなく、グランドセオリーを打ち立てたアンセルムスによって(グランドセオリーを打ち立てることによって)排除された「異端」を唱える、優神論者であった。この「異端」は同じ述語を使うことに特徴がある(アリストテレス主義者はその述語の操作に特徴がある)。
例えば、「道徳的な秩序」とは、神の「有限性」を帰結して「異端」である(スピノザは「一元論者」であって、そんなことを言っていない)。

渡部政盛はそう考えると、なるほど、北一輝と張り合ったなかなか面白い人物である。
歴史に埋もれてしまうには惜しく、少なくとも、北一輝と双璧で語られたら良いのにと思う。
日本には、〈問答文学〉というかそういうものがあって、『三酔人経綸問答』(1887年明治20年中江兆民41歳)があったように、『国体論及び純正社会主義』(明治39年北一輝23歳)、『最近教育学説の叙述と批判』(大正7、渡部政盛29歳)があったのだ。

すなわち、民権をぶった「士族」(高知出身)の中江、国民をぶった「平民」(新潟出身)の北、児童生徒の人格をぶった「庶民」(山形出身)の渡辺政盛である。

中江が「東洋のルソー」で、北一輝が自由放任なフランスよりもドイツに傾倒した穂積ややはりドイツに留学した有賀に学び(中江兆民の弟子である幸徳秋水の影響も受けたと思うが、そこらへん北の中ではどうなっていたのだろう。穂積らと気分的に対峙する程度だったか)、渡部政盛がフランスのルソーとドイツのフィヒテフランス革命で結びつけた。

 

なんだ、そう考えると、この三人を並べるのは至極真っ当ではないか。
天才ながら「女」に押し込めらた与謝野晶子と、(中央の「女ぐるい」の「男」ではない、すなわち、そんなものは所詮は「俗情」に過ぎないが、そのような「俗情」ではない)「俗論」の「男」にしかなれなかった(北一輝と或る意味双璧な)渡部政盛をきちんと取り上げると、むしろ大正デモクラシーの見通しが良くなる。
その「女」も「男」も、新しいマルクス主義的「男」と国家主義的「男」といった、いずれにしても統制主義的「男」に或いは回収され或いは蹂躙されてゆくのであった。
それは、結局は、国際的な動きと平仄を合わせるように、国内の統計的事情によって動かされてゆく流れの中にあった。