オッカムのウィリアムはイングランド人。ウィリアム・シェークスピアはイングランド人。アイザック・ニュートンはイングランド人。バートランド・ラッセルはウェールズ人(モンマスシャー州出身)。

ボーヴォワールじゃないけれど。

エリートが古来、文系なのは、こういう理由なんだね。

私はエリートでも何でもないけれど、古いこと知らないとなかなかハナシしづらいでしょう?

技術に偏った理解じゃないかね。

フツウは人格から考えるよ。

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

 

非常に面白かった。まさにルターも「能力」について考えていた。

ただ、予備知識がないと、なかなかつらい。

【ルターとオッカム】

 ルターは「オッカム派」の修道士だった。〈主語〉としての〈述語〉に依存する個性ゆえに、啓示(のみ)に従う。すなわち、記述主義ゆえに聖書主義。
→ルターと三位一体

【ルターとアリストテレス

 にもかかわらず、ルターがアリストテレスを認めないのは、実在性を否定した新しい一元論だからであった。三位一体で議論された言語の〈媒質〉(媒介;受動)性を否定し、それを、オッカムのウィリアムが「啓示」と捉えることで、述語の働きによる(主語の)〈導出〉問題、すなわち(主語からすると)〈能動〉に置き換えた。
 そこでは言語が必須とされたが、不可逆な再帰的〈帰属〉であるために、(ルターにとって)言語の働きで十分のはずであって(そこに〈自由〉はない。)、後に『ユダヤ人とそのいつわりについて』の問題を引き起こすこととなった☟Ⅰ検討。

【ルターと三位一体】

 言語の持つ接続への信頼。オッカムのウィリアムが遂げた〈媒介〉から〈接続〉への転回を推し進めて、実在(或いは、属性の乃至主体の)問題を記述(或いは、系の乃至主語の)問題に置き換えて実践した。その結果、新しい系となる「十字架のイエス」を発見した。

【ルターと生活】

 社会的結合の持つ、回復契機(正義、公平)と動員契機(正統、再帰的不可逆性)のうち、〈意志〉を後者への帰属と考えるため、前者に帰依する人文主義者と対立する。
→ルターと人文主義

【ルターと人文主義

 この述語、〈帰属〉と〈帰依〉が〈自由〉の焦点であって、ルターは〈帰依〉を認めない。本性的な〈帰属〉である。
→ルターとバーゼル学派

【ルターと子ども】

 「子ども」の発見は、「啓示」の力が弱いために子どもの〈能動〉が弱くしか〈導出〉されないことならば、さしものルターも二元論を裏から導入したかが注目されるが(属性理解の区別をもたらした〈媒介〉:主体(形容)と〈接続〉:形容(主語)の、系における機能的等価性;仮に記号的に、〇|△(  ↑(・))と〇(△)とで表現できるとすると、・にあるパラメータ量を増加すると ↑ になるか、〇になるかの問題:言い換えると↑の〈接続〉形の△と〇の〈媒介〉形の△の区別:主体の排除問題と幾何学的世界観☟Ⅱ検証)、「啓示」が〈神そのもの〉ではない三位一体に胚胎するriskかもしれない。
→ルターと三位一体
これは同時期にいわば『子どもの人権宣言』を提唱して子どもの奴隷扱いを禁じたエラスムスと比較され、『ユダヤ人とそのいつわりについて』の問題と表裏一体となって、「子ども」の発見が『子どもの人権宣言』を含意するかが問われる。それは強弱問題と衡量問題の分岐であるとも言える。ルターには衡量問題は「十字架のキリスト」によってすでに満たされ解消した「過去の問題」であった。
→ルターとバーゼル学派

【ルターとバーゼル学派】

 ルターの学んだ「オッカム学派」であるエアフルト大学に当初範を採りつつ、エラスムス以来の学統を築いて人文学の拠点となったバーゼル大学は、唯名論に連なることでキリスト教から自由になりつつ、ギリシャ哲学に傾倒することで実質的な〈実在〉論である〈属性〉(の一種である〈主体〉)を研究したため※、〈自由〉と言っては〈実在〉の語られる〈媒質〉を めぐって、その本質を〈受動〉ととらえて(述語の文法要素である主語の)〈能動〉で対峙したルターと議論した。ルターにとって〈能動〉は「啓示」(述語)によって〈導出〉されるのであった。同様にして充足理由律も否定される。充足される「理由」など必要ないのであった(「啓示」は衡量される「理由」ではない)。
その気づきをもたらしたのが、『神の義』の属格であって、これは、順序による推移(上から下)から、「付与」という述語の発見により、付与による推移(負から正)を転換を意味し、動員機序(正統)と回復機序(正義)の2系統化への分離を為した結果、属性の問題を系の問題に置き換えることができて、『十字架のキリスト』を導くこととなった。それがルター個人の経験の中では、ウィリアムのオッカムの学統を継ぐとは言え「言葉尻」の問題でしかなかったところ(実際は否定していたはずの実在的自己をまだ受け入れていた。)、行為上の矛盾を通じて(再帰的な問題を胚胎していた)、言語学的な転回に気づくこととなったのであった。

バーゼル大学には、ネーデルランド出身のエラスムスとは別にルターを否定したスイス人のパラケルススが居て、彼の一元論は同じスイス人のカール・グスタフユングに引き継がれたようだ。
一元論の否定には、キリスト教の相対化、カトリック教会の相対化、スコラ学の相対化といったレベルによる違いがあるようで、最初の場合、制限なきギリシャ哲学の称揚としての人文主義として表れ、真ん中の場合、例えば三位一体の教義の拒否として表れ、最後では例えば三位一体の受容方法の拒否として現れるのではないか。最初がエラスムスで、真ん中がルターで、最後がパラケルススであるだろう。ルターはアリストテレスを「異教徒」として斥けつつエラスムスへ「人間中心主義」と言って反論し、パルケルススはルターを「異教徒」と非難する。
だから、一見思想を同じくしない、エラスムスパラケルススバーゼル大学で同居する。また、神(キリスト教)の、相対化を超えて、否定になると、社会主義である。
一方〈自由〉の人文学的学統はむしろネーデルランドライデン大学で盛んになり、放浪の哲学者であったフランス人のデカルトなどが教鞭をとった(デカルトははじめてフランス語で哲学書を著した。ドイツ語で最初に聖書を表したルターと比肩できる業績である。そして、デカルトが中世の神学研究者から低い評価となっているのは、その言語学的拙さゆえだろう。これはなるほどわかるのであって、言語学的に拙いとは、ゼノンの第二問題と第三問題を言語学上区別出来ない有様のことである。もはや言うまでもなく、第二問題は属性の問題で、第三問題は系の問題である。ゼノンの問題を我々に紹介したのがデカルトである。ルター或いはほかのドイツ人が紹介していたらもう少し違っていたかもしれない。属性の問題とは、属性の本性的riskとして属性に胚胎して〈形容〉されなければならない媒介質に現れ、系の問題とは、要素を導出する述語のdangerとして属性同士のパラドックスに現れる)。

 

なかなか錯綜していて整理しずらい。唯名論から〈主体〉も生まれるのだ。
自由意志と能動は別だったのである。
こういう変遷は、考え方を相続して猶、当時何が問題となっていたか(何の解決が目指されたか)がわからないと、結局は、よくわからない。「こういうことをしました」という後付けの説明論理だと、理解できない。
「問題」「回答」「効果」がセットになっているべきではなかろうか。
こういった文系の学問は科学主義ではなく経験主義に依存しているのであるから、科学的に記述しようと思っても難しいのであった。せいぜい整理された統一の記述法を発見するくらいである。本来は、ラッセルらがすべきであった仕事だろうと思う。

 

また、👇のような観点も大事だろうと思う。 

 


☞Ⅰ検討

ユダヤ人とそのいつわりについて』の問題は、そのまま「小さな大人」問題に引き継がれる。
「子ども」の発見によって子どもの教育にも熱心に取り組んだルターだが、一方で、人文主義者の(したがって実質的実在論者の)エラスムスも子どもの教育には熱心であった。
本質的に同じように子どもを擁護しただろうか?

そもそも論として、ルターはユダヤ人の何に怒っていたのか?

ユダヤ人と彼らの嘘について - Wikipedia

を読んでもさっぱりわからない。ならそれはルターのキリスト理解だろう。本質的には

三位一体 - Wikipedia

に際して 

アリウス論争において提示されたのは、このような状況のなかで神と世界との関係をいかに考えなおすか、ということだったのである。そして、この再考の結果は劇的な結果をもたらした。主教アレクサンドロスやアタナシオスが神のロゴス(キリスト)を厳密な意味で神の領域に帰したのに対し、ルキアノスやアリウスはロゴス(キリスト)を被造物の領域に帰したのである。

 アリウス派 - Wikipedia

 ロゴスとしてのキリストを信頼し、『詩編のすべてを「キリストの詩」として読むルターの解釈』(No.469)を導き出したはずである。

彼らに共通する認識で重要なものは神による「無からの(万物の)創造」の教義であった。アリウスもアタナシオスも「無からの創造」の教義をきわめて明確な形で持っていた。「無からの創造」の教義は異教哲学のまったく知らないものであり、しかも、初期キリスト教神学のなかで徐々に漠然とした仕方で現れて来たものであり[注釈 4]、それはきわめて驚くべきことであった。「無からの創造」の教義は彼らにとって、神と被造物の間には完全な断絶があることを意味していたからである。神と世界の間には、両者を媒介するどのような領域も存在しないのである。

アリウス派

ただ、三位一体問題が、そもそも聖書にない記述を採用したのが発端ではなかったか。

この中で御父と御子は「同質」(ギリシャ語:ホモウジオス)であるという表現が使われたが、この語の使用は、聖書に記載がない言葉が初めて教義の中に取り入れられたという意味で画期的であった。参加者間ではこの「同質」と「相似」(ギリシャ語:ホモイウジオス)のどちらを使用すべきかをめぐって激しい論戦が交わされたが、なお「同質」という言葉を好まない主教(司教)たちも多く、神学論争が長引く要因となった。

第1ニカイア公会議 - Wikipedia

これについててどう考えたかはわからない。
また「啓示」を重要視するルターが愛を伝える聖霊をどう考えたかもわからない。

聖霊は愛によって人々を造り、そして幸せへと招いてく役割があるとされる

聖霊 - Wikipedia

 聖霊は「大シスマ」を生むほどの大問題だったはずだがよくわからない。

フィリオクェ問題 - Wikipedia

とにかく、ルターにとって問題だったのは、ユダヤ人の「嘘」或いは「偽り」だったのだ。これが何に係るかが重要である。
ルターの原理的な画期は、属格の発見による「正」の分離であり、一方を回復機序として正義の系に、一方を動員機序として正統の系にして、完全に実在性を払しょくして個物としての存在を完成した結果、意思は「啓示」の強弱に係る〈能動〉として正統に〈帰属〉することとなったことで、これはすなわち実在の胚胎するriskを属性の外部に排除して系に負担させた結果dangerとして二系統間で負担することとなったことと機能的に等しい。こうし属性の実在ゆえの自由意志をも否定したわけだが、キリストが神でありロゴスでなければ「啓示」が意味を持たない。それが『キリストに注目しなさい』(No.301)という師であるアウグスティヌス修道会の総代理シュタウピッツの教えでもあったはずだ。

ユダヤ人はもちろん、キリストを神ではない被造物とみなす。またルターの画期には興味を払わない。(そもそも御父と御子を『同質』などというキリスト教徒による「ギリシア語の追加」にヘブライ語でもないのに興味を示したかどうか?)

ユダヤ人は戒律の中でそれをヘブライ語デ書き起こしたタルムードという彼らのための「解釈」(ラビの権威として存在する。)をまとめたものの中で暮らしている。 

タルムード - Wikipedia
それにはユダヤ教の中でも見解が分かれているようだ。

なるほど、ルターが聖書を読めるようにすればよい、と考えた理由があるし、また読めるようにしたのにと考える理由もある。
だいたいルターが癇癪を起すときは、言葉がうまく伝わっていない時だ。そういう傾向があったらしい。

経緯はよいとして、ユダヤ人の「嘘」の本質が「怠惰」なのか「欺瞞」なのかである。ルターによれば、聖書が読めれば、「啓示」の動員力によって、〈能動〉が惹起するはずである。読めないうちは、「啓示」の動員力が0であったという解釈である。このはんたいには、〈受動〉があるはずだが、これは今や系をまたぐ話で、正統とはねじれた反対にして正義に関して正反対の意味を成す「欺瞞」である。正統の正反対の意味を構成するのは「怠惰」であろう(弱さである「消極」でもない)。
ルターは正義に係る「欺瞞」よりも、ルターの教義の本質である、正統に係る「怠惰」を問題視したのではなかったか?

さて、「小さい大人」問題である。
エルスムスのいわば『子どもの人権宣言』の子どもが「小さい大人」であるとき、ルターの発見した「子ども」とは異なるだろうか。
「啓示」の動員が弱くて「怠惰」な子どもを前にしてルターはどう考えただろう。そんな「子ども」はルターにとってあり得ない存在だったろうか?
反対に『子どもの人権宣言』の子どもが「小さい大人」とは区別される「子ども」未成熟な人だったとき、表現型としての「子ども」が子ども()としての内を満たすのは人としての認められる以上に認められる媒質であるがエラスムスはそれに言及してはいないようだ。
どちらの論者が子どもを「小さい大人」であることから解放しただろう?

これが「ユダヤ人」というドイツ社会の周縁に位置する人々に現前化するのが『ユダヤ人とそのいつわりについて』問題であり、現在の日本の教育現場で周縁化される「小さな大人」問題である。

ドイツの宗教改革言語学的な問題ゆえにすぐれて現代的な「説明に関する問題」なのであった。 


 ☞Ⅱ検証

なぜラッセルの髭剃りのパラドックスが「パラドックス」として説明力が弱いか。
「髭反り」が述語に誤解に過ぎなかったからだ。

voice(態)に解消されて矛盾が生じない。ルター的に言うと、規範(述語)対象(要素)化されて〈能動〉の力が限りなく0に近づくだけで、無限の大きさゆえの問題が生じない。すなわち、グラフ上で、→と←が矛盾するのではなく、↺と←が選択されるだけであった。

 床屋〈髭剃り〉客:床屋→客:↑(・)

 〈髭剃り〉自己:↺自己:↺(・)

このとき、無限の大きさが増大しない。
したがって、パラドックスを構成しない。これはそもそも・が内部を持たず、かつ、それによる構成が内部を持たずに済むためである。これは単純にvoiceの問題である。

嘘つきのパラドックスは、最初から評価=内部を持つ。
それはテキスト上に文法としてすでに表現されている。

 この文は偽である

少し変えてコピュラを用いる。

 或るtype〈は〉tokenであり、token〈が〉言及される

これはコピュラの機能的意義から

 或るtype〈措定〉tokenであり、token〈指定〉言及される

また分析的に言い換えると

 〈不可逆順序〉tokenを導出するの(述語)にいちいちに反応してtoken〈可逆順序〉導引される(述語)

を同時に言うのであるから、もちろん矛盾を(述語)展開して表示する。
つまり、〈指定〉の内容が{T,F}で、F=¬Tの二値であるとき、任意交換可能な因子の導引可能な可能の二重(再帰)化表現であり、それによって表示(表現)としてのタイプが評価されることを含意する。
つまり、ここであらかじめ含意されていることは外観(表示)と内容(評価)の(可能フィールドの)分離であって、そのため(系として)無限の大きさが増大することが問題視される。矛盾とは無排除を謂う。だから実は、無限の大きさが増大しなければ問題視されない(ある無限を内包する系から、適当に例えば再帰的に「矛盾」を構成して、同じ大きさの無限の系を取り出しても問題とならない※)。
voiceに帰着させる場合、その分離をあらかじめ排除しているのであった(したがって、少なくとも、そのようば構成の仕方では、パラドックスを構成しない)。
このとき、パラドックスriskがあらかじめ(主語ではない)主体の問題として(テキストの外部へ)排除されているのであった。
これが法学(行為の意味体系)がパラドックスを発見しなかった原理的理由である