求められる能力は明治以来、実は2通りしかない。ひとつは「市民」として、ひとつは「エリート」として、ただしその間に「産業人」が居る

 

 興味深い本だとは思うけれど。政策にフォーカスがあっているような印象を受けない。

自分が考える最近の動向は、もっと単純に。

①市民教育

②産業教育

③高度指導教育

という、実は、それこそ(著者も外延的には触れている)明治以来(近代化以来)の「能力」教育だ。

「能力」を個人と社会の技術的な関係で見るならば、測定の観点から見るのも大事だけれど、社会構成のロジックに従属する「個人」の意味する〈単位制〉の変遷と見た方が自然じゃなかろうか。

そう考えると。

①については、人権教育、狭い意味での市民教育

②については、デジタル社会における実務能力

③については、高度な内容の専門教育

であって、

①の科目が、論理国語、文学国語、公共など

②の科目が、統計、情報Ⅰ

③の科目が、歴史統合、地理統合、理数探求、古典探求

だろう。政策背景としては

①「総合的な学習の時間」への社会的反省による、総合的な判断能力の涵養

②「英語科」新設に代表されるグローバル社会に対応した新しい実務能力への社会的要請

③「ゆとり教育」への社会的反省による、高度な専門能力への穏やかな接続

が考えられ、上に挙げた科目のほかに、

 ディベート能力や表現、発表能力

が考えられたが、「市民」の定義を巡って上とは別の保守的な文脈で、

 伝統理解

が求められ、これはただの推測で、「おそらく」ではあるが、この延長に

 受験進学校における、社会科、特に日本史の授業の単位不足

が問題視された。

だから、③の科目として挙げた、理数探求以外の、歴史統合、地理統合、古典探求は、係る社会文脈から言えば、市民教育へ含めてもよいかもしれないが、係る(不幸にも)特殊な文脈を持たざるを得なかった一方で現場の都合を考えると、

 新しいエリート像に求められる「戦略的知性(能力)」

に(意味を再構成して※)含まれると考える方が自然だろう。
※要は、より「高度な知性(能力)」に引っ掛けて、進学(以降)に含みを持たせた。

すなわち、ここで求められる「能力」は2種類に分けられ、

Ⅰ大衆向けの、グローバル社会に向けた、基礎的な判断能力

Ⅱエリート向けの、グローバル社会に向けた、総合的な(或いは高度な)判断能力乃至戦略的思考い関する能力、または、革新的研究能力

であると考えられ、これは、明治の近代以降の諸々の文教政策の文脈から逸脱するものではない。

 ただ、混乱した印象を受けるのは、特に「「ゆとり教育」の問題」に顕著にみられるように、成熟した社会に於いては、保守的な傾向が強く出る(政治的な意味ではなく、広く社会的な意味である。要は、秩序変更を望まない人の方が多い。以降、政治的傾向と区別するため、社会保守的な傾向と謂う。)ために、事業遂行のためのリソース獲得の限界があり、また、大衆社会も次の展開を輿望するにつれ(大学全入時代)、特に大学入試に過度な負担が集中しているような印象を受けるのは、むしろ、センター試験改革に見られるような、負担の分散を嫌気するやはり社会保守的な傾向のゆえであろうが、これは「総合的な学習の時間」が現場の社会保守的な傾向(見た目はそうであるが、むしろ、新しい教育に向けての技術の習得の限界)により、(市民教育へ届かず)「英語の学習」に収れんした経緯を前駆とする。これは、リソースの余裕に応じて政策目標の帰着が決まることを示唆する(「ゆとり教育」と「英語の学習」はともに30年の蓄積があった)。


社会構成の視点が乏しいように思う。
例えば、学校教育の前乃至同時に「成年教育」があったことをあまり知らないんじゃなかろうか。それはまさに「市民教育」だったのだけれど、それとは別に小学校卒業後の産業教育(職業訓練校)としての「青年学校」も後にできる。

エリート教育はいうまでもなく、帝国大学の設立から、高度専門学校の充実から大学への改組だが、一方で中等教育の拡大、初等教育の村落での定着があっただろう。

そういった社会に於いて、社会属性が統合されてゆくのが、昭和以降。内務官僚全盛時代だ。

そして、内務体制からの「独立」が戦後。 

そう考えると、この著書では、「能力」に拘るのだが、新しい社会像、その中での新しい市民像が見えてこない。「能力」は個人と社会の間にあるのではなく、「市民像」と「社会像」の間にあって、これは明治以来確固としてある。そしてそれは社会の喧噪の裏にある意外に長い沈思黙考の上に築かれていたのであった。

高大接続で考えると、これは大学入試改革と「ゆとり教育」からの教育の柔軟化(選択的高度化)の合流するようなハナシだが、そのようにイベント生起に原因を求めるのではなく、より長いスパンで考えると、 市民とエリートの接続問題であって、市民とエリートが背反的属性か、包含する属性かが問われている。つまり、戦前の複線的な中等教育の意味づけに鑑みられる教育観だろう。エリートは市民と別に存在するのか、市民のうちから生まれて来るのか、『末は博士化大臣か』は『故郷に錦を飾る』ことなのか。

そうすると、おのずと、地方と中央の関係にも目を配らなければならなくなる。
そうすると、最初のハナシに戻るが、「成年学校」の意外な、、、重要性に気が付くのではなかろうか。むしろ、それが本質ではないかと思う。