voiceとcall

自分の資質と今後の生活におけるその位置を静かに考えて、①ロジックの理解力の或る到達②表現力の理解力の或る到達を目指すうえで、記号論理学、言語学国語学、知能検査に関すること※

 

※これが或る意味新しい発見で、社会能力が「言語能力」としてどう理解されるべきかに沿って実践されていて、検査自体が国語の教科書になるくらいだとの感慨を抱いたー『ごんぎつね』の理解。ただし、それが「社会能力」に留まるのは、例えば接続助詞「し」の理解で、これは語用レベルでは、検査で求める理解力以上に柔軟に使用されてきた歴史がある。これを「合格点」というロジックを使って解消している。つまり、「厳密」という形容に表出される言語方向性の分岐を許容して、内に封じ込めたのだ。すなわち、田中ビネー知能検査Vもグランドセオリー的な性格を持っていたのだった。
それがあまりにシンプルにかつさりげなく表現されている。したがって、田中ビネー知能検査Vで行われる「語り」自体が、言語学の対象である。
ありていに言えば、『ごんぎつね』の理解にはここで目指される「知能」がおそらく必要である。にもかかわらず、それがほとんど理解されないのは、彼らの知能に問題があるためだろうか?それを現前化するのが接続助詞「し」の理解をめぐる、構造規約的か、経験からする多義許容的かである。それを自明視するがゆえにまさにriskを巡る問題であり、前者からすればそのriskの転化の問題である。
こうして、文献学的であっても、人文学的であるのと、非人文学的であるのとの違いが腑に落ちるのであった。

なぜ、『ごんぎつね』の授業に不満を持つ者が、機械的な或いは評価一意的な文法学習の事前明示を求めるのか。これが分岐問題だからこそ、解釈をめぐる動員問題だと気づいているのではないか。それへ向けて、〈回復(機序)〉への復帰を目指す(或る意味、人文的)呼びかけ(メッセージ)である
彼らは、「公平」を心機とする、言語デカルト主義、言語機械主義者である。一方で、田中ビネー知能検査Vは、「」を心機とする、言語ニュートン主義、言語幾何主義である。つまり、言語グノーシス主義であるが、これは系統的に、言語ロマン主義とは異なる。すなわち、言語グノーシス主義が、言語ロマン主義へ転化しているのではないか。
これこそが、知能をめぐる神話を生んでいる
そういった一般的な誤解をうかがわせる。あたかもスピノザプラトン主義者と思われたように。つまり、フィヒテの『し』を巡る問題がそれを表現している。フィヒテは(スピノザ主義者を自称している割に、スピノザと本質的に異なり)あくまでriskを許容する人文主義者だったのだ。ルターの『の』(ひと文字)が世界の見え方を与えたように、フィヒテの『し』(ひと文字)が社会の見え方を与えている。それがルターの指摘した(人文主義者の)人間中心主義であった。それは古典論理(神の論理)/形式論理(人間の論理)に、排中律(¬¬A=A)をめぐって、(Ai/Ab/Aeへ)そのまま引き継がれている(すなわち、Abを神の領域:系の規約:とするか人間の領域:系の裁量:とするかをめぐって。これに画期をもたらしたのが、アンセルムスとルターで、それを主体内で再帰的に考えることで、系間の規約/系内の裁量問題と喝破し、神のみが真の主体であって、人間は主体でない:述語の対象である主語:とみなしたーゆえにアリストテレス的な認識である。)。

そう考えると、「理想」の現れ方が、多規約同時拘束的であり、すなわち、田中ビネー知能検査Vのかの問題の特徴であった、構造を与える語彙(規約回答)、状況を与える語彙(選択回答)の、一文の意味世界の破綻を排除することを企図する、同期設問は、この構造を表現したものであった。
この設問に惹かれてやまないのは、この設問がシンプルに何かを表現しているからで、それが(アインシュタイン的な意味で)エレガントに感じるからだ。
だからこそ、(その美しい世界観は)人文的理解を疎外している。それが『ごんぎつね』をめぐる状況ではないかと思う

 論理学の歴史 - Wikipedia

構成論理(構成的な説明)ではそうであるが、解説論理(解説的な説明:)では主体の表現の問題になる。すなわち、aspectvoiceである。

相 (言語学) - Wikipedia
態 - Wikipedia

このとき、「登場人物の気持ち」は本義的に(作者の与える)voiceを胚胎した「主体」のaspectとして文中で表現される。これは主に(前後の)文脈から解釈を一意的に与える(読者による)「読み」となる。
「作者の気持ち」は
「作者の意図」
これらすべて問われるのが『ごんぎつね』の際だった特徴で、それが新見南吉という童話作家大正デモクラシーにおける  であった。それが人文的理解の進んだ、言語デカルト(機械)主義全盛の今日、説得力を失いつつあるのが、反対的に今日的状況を説明している。解釈の一意化という「媒介」的説明が事前に要る。幾何(系間の規約)的な説明では規範的であって、〈自由〉を損ねて「不公平」だと受け止められるのだ。それを〈回復〉することを求められる。例えば、『ごんぎつね』の文中に散在して発見される対照語彙の共益的な解釈では、「そんなこと(言えるかどうか)わからない」とされる。それら読者にしてみれば、それは「作者への忖度」だから、そこにあるriskは明示され(て、機械的:自動的に理解され)るべきとなる(そこで扱ったのが、dangerであって、riskでないにも関わらず)。

そうして、大正新教育運動を通じて(田中ビネー知能検査Vで表現される能力観即人間観を梃子に)、増淵と荒木の理解へと近づく。

 

これは読むべきだろうと思っているが、政治スタンスの違いから、言葉に飲み込まれてしまわないか心配で躊躇している。

 非常に興味深い。
「こそ」という接辞を巡る解釈論だ。

まず読んで検討を加える前に、見当をつけてみる。ただ言葉を鵜呑みにしてしまって、解釈の広がりのもたらす利益を損ねないためだ。「食べる」以上「しゃぶる」くらいの貧乏人の吝嗇的な発想である(食事のマナーではそのような社会違反はしない)。
ちなみに、映画も「ネタばれ」してから観に行く。見損なっては「困る」からだ。180分大画面の隅から隅まで均一に集中するなんてのはファンタジーであると信じる。人間である限りフォーカスし、時間経過で集中力に濃淡が出る。そのとき「見逃し」が出るのが悔しいだけである。
これは継時的/同時的理解の指向の違いかもしれない。映画に求めているのはドキドキ感ではなく納得感である。

 

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関して、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 (日本国憲法第24条)

赤字強調は引用者。

そうするとなんと「フィヒテの『し』」が出て来る。すなわち、人文学の「し」であり、riskが問題だと気づく(これを起草したのは宮澤だったか?)。

後段には〈措定〉の「は」が出て来る。aspect(voice)と謂ってよく、『個人の尊厳と両性の平等』の表現として『配偶者の』以下が語られることを決定している。

このような文の構造を持ったときに、接辞『のみ』が何を企図するのか。

まじまじと憲法第24条を見たことがなかったので、それまではもっとややこしいことを想定していた。すなわち可能態/当為態の錯誤的な対立である。その場合、これと対になるのが、「選択制夫婦別姓」で、「できる」ことを巡る理解である(そういえば、あれをriskと捉えるがゆえに、「わからない」が連呼される事態になっているーまるで『ごんぎつね』と一緒である。ここでも系間のdangerを認識する者たちは、それが「不可能」だと理解する。例えば、「分籍」問題であって、これが民法と戸籍法を架橋していることから理解されるのだ。繰り返されるアドホックrisk対応に辟易としている者たちでもある)。
要は(その場合)、「婚姻は、両性の合意に基づいて」成立するとき、具体的な係争を惹起するかを考えたとき、それは「婚姻届(の提出)」に集約され、少なくとも現行の手続法では、婚姻意思と証人の解釈に行き着く。反対から言うと錯誤と偽証の問題だが、判例は、形式的な具備要件であり、錯誤もそれに付属して従属的であると解する。受理に求められる婚姻意思は届け出意思であって実質的な婚姻内容への意思ではなく、証人の錯誤はそれに準じるが、具備要件のために、偽証は受理の取り消し原因となる(実質的な同意の有無を必要としないが、形式上の有無の実際は判断を分かつ)。

このような届け出制によって維持されている婚姻制度が『こそ』を除外することでどのような効果を持つか。
特に変わらないのである
すなわち、『こそ』が効果を持つには、届け出制自体を変更しなければならない。
これは先ほどの証人の同意を巡る判示内容がそうなっていたから、それを逆手に取った理解だろう。実は、その理解にも変遷があったのだ。
ただその判示は解説論理であって、構成論理ではない。
というのは、あくまで証人の意思はその基をなす両性の婚姻意思に付属するからだが、『のみ』の有無によってこの構造が変わらないのは、『のみ』が接辞ゆえの形容だからである。『のみに基づく』のも「に基づく」のも基礎づけられている構造に変更はない。これが文体的には可能態を為しているからである。
これから当為を読み取るのは、当為/可能の構造を反対から見たからである。
それが判示から(遡って憲法理解へ)もたらされる帰結であって、判示が憲法を本来の可能な理解から当為の理解へと転換する契機を与えている。
だからこそ判事は(構成論理ではなく)解説論理であると説明しなければならない。
ここでは、判示=憲法(そのもの)でないことを強調しなければならないのであって、それはコモンローではない日本国憲法の理解に遡る。解釈立法(裁判所の法創造)は禁止されているのだ。
日本国憲法が「合意に基づく」と〈可能〉を示した以上、届け出制は、それを表現するだけである。その場合、現行の届け出制に変更はない。両性の合意がない場合に不受理であるが、両性の合意がある場合、届け出〈できる〉のであるから、反対に、、、、届け出は受理〈されなければならない〉。反対は、、、voiceに(よるaspectとして)現れる。
論理構造的に自明な問題がなぜ惹起するかと謂うと、経緯としては係る判示の解説論理ゆえであるが、それが納得を得やすい理由が外延的にある。所謂「文理解釈」である。

『こそ』を文理的に理解すると、本来立法経緯を為す事実であって立法内容を為さないはずの或る事実が、そう表現されていると解釈をもたらすのである。すなわち、『こそ』にはそこに在るべき内実が含意されると理解することである。それは経緯そのものであるから、それが表現されている判示をcallする。論理上の可能態の文理上の当為態への変更、解釈改憲解釈改憲の先取り)である。それが(解釈)改憲で実定されるのか。なんとファンタジックな文構造を文理解釈はもたらすのか。
だから、『こそ』が、改憲を巡ってとりあげられるのか。
わかるだろうか?
aspect(voice)がaspect(call)に転化しているのである。ここでは要は、表現(原理)が表現(経緯)に転化しているのである。これはかなり法解釈上不穏である。そのような解釈をする法律は一般にはない(c.f.税法。経緯は解釈をもたらさない※)
これが憲法解釈の百花繚乱を導いている。憲法学者以外が憲法学者以上に雄弁に語るのであるが、そのひとつの特徴にこのような理解がある(或る国際法学者に典型的にみられる)。
これぞまさに人文学的理解である。

※私はこのためだけに年会費を払ってまで(版の違いに)拘ったことがあって、ちょっとした思い入れがあるのである。