民主主義がダメな制度の割に代わりの制度がないことへの実感の歴史

明治・大正の「民主主義」がほぼ理解されてないなぁ。

「革命英雄史観(講談史観)」(反革命史観)だと見誤るんだよね。

この(反革命史観)は、日本国憲法にも引き継がれて、「自衛隊違憲説」という「珍説」が一般に流布させてもいるんだよなぁ。

それは自衛隊を認める/認めないという(或いは、集団的自衛権を認める/認めない)と(いう政治的イシューと)は独立にあって、法的(レジテマシーの)問題なんだよね(それをわざわざ政治的に混乱させているだけなんだけれど)。

明治憲法を改正して日本国憲法に至ったのは、手続きを形式的に踏まえたにせよ(それは、国際法上の正義の問題であると同時に、国内法上の正統の問題でもあったが、「形式」で十分であったのが特徴。)、革命はあったのであって、(アメリカで憲法改正は、硬軟ーすなわち、立法的に解釈的に行われるように)革命自体実は珍しくない(経済学におけるデフォルトと一緒。そういった意味での「破綻」を実は南米は頻繁に起こしている)。
日本の憲政史を見ると(これが「憲法史」じゃないところが、そのように運命づけられていることを示唆する。)少なくとも、美濃部革命はあったし、アメリカ革命はあった(昭和に革命があったかどうかは見ていないので知らない)。つまり、大日本帝国憲法をめぐって、2回は革命があった。このとき、政治的保守と法的保守を区別できるリテラシーが求められる(美濃部革命が「ない」と考えるのは、政治的保守の立場。なぜこれが「保守」と理解されないかというと、そもそも「開国」が政治的に言って保守的じゃないから。反対にいうと、明治革命によって、新しい政治的保守を生んだんだよ。すなわち、「明治維新」と呼ばれる明治革命は、美濃部革命と違って、政治的なレジテマシーの変更。一方の美濃部革命は法的なレジテマシーの変更。だから、政治的保守と法的保守が区別できなければ理解できない。反対から言うと、これをごっちゃに考える人が多い。それが「反革命」的態度を生む。つまり、それが分離する効果として、政治的に正統でも、法的に非正統ということが在り得る、ということ)。
ここに、或いは国際政治と国内政治の交点に生まれた、政治的産物としての大日本帝国憲法の特殊性がある。日本国内の状況を言えば、憲法の前に(すでに)憲政があって(つまり、政体があった)、その文脈に乗せて憲法をどう解釈するかの問題を生じた。フツウは、経緯は解釈を生まない。それが実証性なんだけれど(つまり、文言として構成されなければならず、その効果として、文言以外からは意味をくみ取らない。しかし、この「文言」が語彙体系を為すところの全体に帰すべきか、個別の条文に帰すべきかで、論理と文理が分別される奇妙な現象が起こる。原理的に考えて、文理を論理から分別するのは、破綻的だ)、それを「慣習法」として体系に組み込むと「憲政の常道」がある。しかし、ここで困難を生じる。そのような言外の言を斟酌するのは、英米法体系だからだ。ここに主に長州門閥英米派、開明派)の構成した憲政の行き宛が「困る」事態になる。プロシア・ドイツ型の憲法を採用したからだ。ただ厄介なのは、欧米は大きくくると一つの文明圏であるから、ドイツだからと言って直ちに自然法を棄却するわけではない(ドイツ流の受け取り方が在るのだ)。問題は大日本帝国憲法がどうだったかであって、自然法的理解の痕跡があるのだが、「憲政の常道」と嘯くのとは本質的に違うだろう。これが「大正デモクラシー」であるところが味噌だ。

英米流独逸学派である美濃部が法的レジテマシーを変えて、大日本帝国憲法解釈改憲して、「憲政の常道」が本来馴染まない大日本帝国憲法に「憲政の常道」を馴染ませてしまったのだ。これが彼の個人的画期でないところが、「憲政の常道」である。そもそもそういう政体ができあがっていたのだから、上杉も、当初は「自由民権的」だったのだ。つまり、政治的(幕藩体制に対する明治憲政)革命派でありかつ法的(明治憲法に対する憲政)革命派(これらの起点となるイベントが時系列上前後することに注意。なにしろ、大日本帝国憲法の前に起点となる憲法乃至憲法典はなかった。憲政を以て「憲法があった」とするかが判断の分かれ目である。その場合には、前憲法に対する大日本帝国憲法が革命を起こしたことになるので、それを前憲法的理解に翻すのは、反革命の立場になる。これが混乱する原因である。政治的と法的を区別しないと、それが革命なのか反革命なのかがよくわからなくなるのであった。)であって、美濃部と同じ立場で穂積を批判していたが、ドイツ留学でイェリネック本人の薫陶を受けて立場を翻して、「穂積の直系」を自認するに至ったことがだいじである。なにしろ、直接教わってきたインパクトは大きい(後に、どういう理由かは知らないが、美濃部は「俺だって」と愚痴ることとなる)。

そうして上杉は、政治的にはよくわからないが、法的には(大日本帝国憲法を憲政に差し戻す革命に対する)「反革命」の立場を取ったのだ(憲政を以て前憲法とするなら、大日本帝国憲法による「革命」を是とする立場。まことにややこしい)。

だから、「国体論」が非常に大切な言葉になるのだが、これがイデオロギーを構成するからではなく、経緯を持つからである。ヘーゲルの「アウフヘーベン」と同じく、ドイツ法学の「ふつうの」言葉だったのだ。すなわち、「政体」であり「憲政」である。要は、明確な区別がなかったのだ(これを知ると、「国体」の一体何が問題だったのか混乱を覚える)結局この『明確な区別がなかった』ことこそが大事なのである所謂「国体」にしろ「憲政の常道」にしろ後知恵なのだ。徐々に「どうもそういうことだ」と理解を共有するようになったのである。つまり、イギリス人の悪い癖ではないが、走りながら決断したのだ。ドイツ人は走る前によく考えると評判だったが、どうもそうではなかった。ただ口説は超一流である。ドイツ人に騙されないことが、近現代史を見るうえでの標準的なリテラシーとなって来る

さて、民主主義である。これは法は直接関係がない。
だから簡単かと言えば、そうではない。

こういう素晴らしいものが残っている。京都大学出身ということは京都学派だろうか。論文は誠実であると思う。

http://hist-geo.jp/img/archive/030_195.pdf

http://hist-geo.jp/img/archive/225_065.pdf

戸長 - Wikipedia

https://archives.pref.okayama.jp/pdf/kanko_sosyo13.pdf

https://archives.pref.okayama.jp/pdf/kanko_sosyo13.pdf

女戸主 - Wikipedia

要は、これらのテキストは、「民主主義とは何なのか」を鋭く問うているのである。

「女性」という立場を選ぶにしても、それが「戸主」なのか「民選戸長」なのか「国会議員」なのかである。民事上の権利なのか(或いは刑事上の権利なのか)、実際に属する社会における政治上の権利なのか、近代国家の枠組みからなる帰属上の権利なのか。

つまり、

「法」と「政治」と呼ばれはしないが、社会結合の2系統、回復契機(正義、公平)と動員契機(正統、帰属)がそれぞれ独立にあるからである。

自由民権運動とは、板垣退助に言わせれば、動員契機の問題である。いわば「日本国民」としての承認問題である(だから制度的反論が不可能とも言えない。戸籍があるからであるーこれが2系統ゆえの反射問題を惹起する。正統について語るとき、それが満たされていないことを、「満たされていない」がゆえに、正義の言葉で代用するのだ。反射的シンボル効果である。直接それが意味を持たずに、外延的な意味の派生に期待するのである。だから、直接には―文脈上の解釈では、何を言っているのか見当がつかない。しかし、そのvoiceにならないvoiceという「呼びかけ」にー意味はなくともー意義がある※)

これが実は昨今の「反フェミニズム」言説の横溢の正体である(だから真に受けて「正しい」ことを言っても思ったほど響かない)voiceにならないvoiceという「呼びかけ」である。そしてこれには経緯だけが在る。これが講座派の真似事であるのは実は「日本会議」以来のことである。所謂「ブーメラン化」である。「日本会議」は反対勢力の手法を取り入れたことに特徴がある。反対勢力の行うことがあまりに効果的だが不思議に思うばかりでは仕方がないので素直にその手法を拝借することにしたのである。つまり、彼らにとってイデオロギーはもとよりジャーゴンに過ぎず特に拘る必要のないことなのであった(この延長に某元総理の「×××の手法を取り入れられねえか」がある)。このとき「日本会議」は所謂「秘密の合言葉」で、ただ「裏切り」を警戒するためのシグナルである。要は、「日本会議」が何を言っていようが、ひとつの政治的なサロンに過ぎない。これは日本の政党史上においては、「派閥」が従前どおりの体を為さなくなった後の集団化機能を代替したことであって、しかし、戦前を考えると、ひとり陸軍のみならず、広くエリート間に浸透した某宗派の存在を思い出す。彼らは信心からそれに参加したとは必ずしも言えない。しかし、錯綜したサロン政治の中にあって(陸軍エリートだけをみても、○○会の乱立。※)、より大きな糾合を目指す態度の行き着く先として、お誂えのものとして「あった(発見された)」のではないかと想像する。宗教の言葉を介すると、なぜか動員力が強まるのである。

※これを現代のアメリカのシンクタンクと比べるとわかりやすい。「勉強会」ではあったが、調査能力を(評判を介するか、伝手を使ったヒュミント以外では)持たなかったのだ。すなわち、「科学」に至らず、「宗教」にとどまったと言える。
これは前回たまたま大正デモクラシーの辻裏でウッドロウ・ウィルソンも見かけたが、彼はが「近代行政の父」と呼ばれるのは、(猟官制度として表れる)広い意味でのサロン政治を打破して、科学的一元行政を(「効率化」と呼んでーこれが革新期のアメリカの標語であった。)目指したのであったのだが、行政史を紐解くと、一時アメリカもそちらに流れて制度変更を行ってみたものの、どうしてもうまくゆかないので、その意義を踏まえつつ、元に戻した経緯がある。イギリス(チャーチル)は「民主主意がダメな制度」であることを喝破したが、この科学的行政管理は内実民主主義(代表制)の転換であって、選挙による民主主義(代表制)から科学による民主主義(代表制)を目指した資格による民主主義(代表制)だったのだが(つまり、「公務員」には2種類あって、代議士と官吏であり、民主主義の名の下に、区別がない。これはテクノクラートを考える時、鍵概念となる)、アメリカ人もやはり「民主主義がダメな制度」であることを吐露したのであった(だから、社会主義が良い、わけではないことが、この場合、管理行政を通じて、社会主義も民主主義に内包していることから言える)。

アメリカと日本はほぼ同時期に近代化に乗り出し、似たような成熟経緯を持ったのであるが、こういった達成が日本ではなかなか得られないのであった。

 

 

長すぎて、自分でも何を言いたかったのか、忘れてしまった。
あぁ、そうだ。
普通選挙」(所謂「大正デモクラシー」)などと言っても、煮詰まった結果に過ぎない、と言いたいのだった。
鍋と火加減をよく見なさい

 

 

 要は、👇のヒトを、どう受け取ればよいかかなぁ?ということ。

ウッドロウ・ウィルソンが登場した経緯がやっぱりあって、日本は「まとめ」がうまいというか、与謝野晶子を巻き込んだ「母性論争」にしても、文部省の思惑を理解したうえで、うまく「役者」を配置するんだよね。そのなかにちゃんと「キリスト教」も「社会主義」もはいっている。

そういった「教科書読解能力」即ち文脈理解力の素晴らしさに目を見張るのであるが、結果として、うまくまとめただけで、何か生んだのかな?という疑問は残る。
(何も生んでないワケではないが、それは自由民運動が後退した理由と裏腹で社会の煮詰まりを受けてのことだろうと思う。革命英雄史観ではそれが見えにくいのだ)
そういったことへの開き直りの文化というか、文明が彼らには或るのかな?(日本人にはなかなかない)と思う次第である。

つまり、当時の人文理解に於いては、ごちゃごちゃだったんだね。
おそらく方法的に行き詰まって、何でもありになっていた。
(だからやっぱりチョムスキーって偉いなってなるけれど。えいやって体系的にまとめる意義がある)