なんとか渡部政盛の教育文芸を成立させてみた。

ただ、記号論理(命題論理、名辞論理)学を収めたことがないのでまったく自信がない。

 なんか変だなと思うが、直せない。

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『ごんぎつね』でも意味を漏らさず読み通そうと思ったら相当の努力がいるのに、500頁も読み切れない。どこに何が書いてあるかを探すのが大変である。

もうちょっと簡潔に書いてもらえればよかったが、内容を膨らますのも芸のうちである。記号化した数学者はえらい。

 

渡部政盛の論証としての技術上の瑕疵は、アリストテレスの論証では扱えない「関係」を自然に入れたからじゃないかと思うけれど(詳しくは分からない。)、ではなぜ、それを自然と思ったのか。

彼はプラトンアリストテレスを並べて同時に語るのだけれど、彼の「論証主義」はアリストテレスに依拠しながら、プラトンを実現する手段とも考えたんじゃないかな。

プラトンイデアを超越的実在と説いたのに対し、それを現実在に形相として内在するものとした。

アリストテレスとは - コトバンク

素朴な社会観察の中で、それが実感できたのだろうと思う。
だからそもそも科学に対する説明力を欠いているのだけれど、その実感は広く社会で共有されることだった。その素朴な共感を素朴に共感される以外の何物でもなく言い当てたから、芸になった(反対に、どれだけ正しくても科学的な説明では、その言葉遣いからして異なり※、素朴に共感できない)。ここで「素朴」とは、経験を通じて納得される感慨だ。

※『理想我』の『理想』はモデルのことだろう。それからして渡部が理解できたかわからない。これは訓練の上獲得されることだろう。ヒトは生まれながらにして、観察者であっても、科学者ではない。

そして、それこそが渡部を取り上げた理由である。
それは美濃部にも共通することだからだ。
美濃部と渡部はもちろん知識量は異なるし、その獲得と理解、定着に関しても異なるかもしれない。美濃部は一高から帝大へ進んだエリートでより広い教養があっただろう。それでも経験したことがない考え方には自ら到達できないばかりか、拒否をしたのである。その点で、不思議なことに、或いはヒトの共通点として、美濃部と渡辺がまったく同じだったのだ。どちらも「俗論」しか吐けなかったのだ。美濃部は上等な「俗論」を吐いただけだったが、社会的要請としてはそれで十分かあるいはそうであるからこそ(その段階では)理想的だった。