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つまり、ソクラテスの問答法は、
- 背理法ではない
- 三段論法ではない
一方、最高善 - Wikipediaによると、三段論法が、知性による活動ならば、
- 自足的
- 充足的
- 観照的
つまり、問答法では、対話的であることを利用して、知/無知の二元論を「パラドックス化」することで彼/我の真/偽
(彼)真 (我) 【定理】離陸
知/無知 【定理】混融
(我) 偽 (彼) 【反証】着陸
(我)真/ 偽 (彼) 【帰結】
要は、(まだ形式化できていないので、見にくいが)これは古典的な(聖徳太子の三段論法にも見られる)、中間項がコミュニタスな論証(三段論法)の一類型であるが、
人類学者V.ターナーは巡礼を,日常性の構造であるコミュニティに対置する反構造としてのコミュニタスcommunitasとしてとらえた。彼によればコミュニタスとは,平等で個性にあふれた人々の間に自然に発生する状態であり,特定の実利的目標に向けて構造化された社会の特殊的性格に対して,その普遍的,解放的性格が強調される。
アリストテレスは、これでは三段論法の要件を満たしていないと批判した。いずれにしても中間項の構成が鍵であるようだ。
要は、〈同格〉論証だと、内容が豊富過ぎて、テキスト内で評価を配分するにはテキスト量が不足するのであるから、片側論証化して、テキスト内に十分納めることを提言している。所謂「主語論理」である。
これは一見不思議な感じを受けて、順序が逆さのような気もするのだが、論理の歴史には意外にもこういうことはあって、述語論理も(フレーゲにしても、ラッセルにしても)「(実質)2階述語論理」からいきなり始まったのだ。後に整備されて、「1階述語論理」「2階述語論理」と順序良く理解できるようになったらしい。
簡単に言うと、ソクラテスは「古代のフレーゲ」であって、フレーゲが「概念」でしくじったのだが、ソクラテスは最初から「対話」だったのだ。要は(ラッセルに言わせると、「床屋」たる)〈主体〉である。
こういうことを形式化するのが理想で、そうすると、ソクラテスから(聖徳太子を含んで)ゲーデルまで1直線だが※、今のところまだそこまで行っていない。
※ここでは、アリストテレスがソクラテスを批判したその理由に依って、センの謂った、独立性を保障したとき推移性に必然の『毒性』がパラドックスを必然的に構成する
『片側』(佐伯,『決め方の論理』)性からもたらされる
むしろ、ソクラテスを見ると、反対に、パラドックスを敢えて挿入して両側化しているのが〈同格〉命題である。
つまり、古代によくみられたコミュニタスな論証は両側化されているがゆえに、より複雑(complexed:コンプレックスな)論証だったのかもしれず、それを近代(形式化する)まで、技術的に理解する術を持たなかったのだ。
なぜ、ゲーデルが『神の存在証明』という古い議論をわざわざ晩年持ち出したのか。
「気が狂った」のではない。ようやくそれを説明できる道具がそろったからだ。
アリストテレスでは「正しく」ソクラテスを説明することが(技術的に)できなかったに違いない。敢えて独立性を破ることが真に時代を超越していたのだ。アリストテレスが行ったことは、ソクラテスから、より単純となるケースに限ってはある条件に従っていることを見破ったに過ぎない。要は、「→(片側)」であることを「↔(両側)」から抜き取ったに過ぎない。
これが、(「証拠」に比して)「証言」が権威的である理由である(『確率の出現』)。
『証言』が権威的となる理由もまた、近代以降論理が整備されるまで、十分説明できなかっただろう。ただ、経験的に、それに対抗する政治を持っただけである。
ここで注意しなければならないのは、ソクラテス・メソッドもまた、『科学的』と謂われることだ。政治的論証と科学的論証を分けなければならない。ソクラテスは方法的に未熟だっただけに、それらが分別されていない。
ソクラテス、アリストテレス、アンセルムス、オッカム、ルター、ツヴィングリ、ライプニッツ、フレーゲ、ラッセル、洗練された集合論者たち(ペアノ、デデキント、グラスマン、)、ツェルメロ・フレンケル、ゲーデル・スマリヤン、センに至るまで、なるほどそれぞれ貢献してきたに違いない。
すべて、構造化に付随する「分岐」を十分制限する問題だったに違いない。それを積極的に利用できる術を獲得した者だけが勝利してきた。
さて、藤澤清造を理解するにあたって、シカゴ学派、ハーバード・ロー・スクール、イェール・ロー・スクール、早稲田大学を紐づけて行って、藤澤に返そうかと思ったが、どう考えても、政治学、法学の「革命」が起こるのは、『根津権現裏』(1921年)の刊行後である。
間に合ったのはアメリカのロー・スクールを作ったラングデルの"Selection of Cases on the Law of Contracts"(1871)と、あとはアインシュタインによって「奇跡の年」となった1905年の3年後「もうひとつの奇跡の年」である1908年に、ベントリーの『政治過程論』、ウォーラスの『政治における人間性』とさらに、シュムペーターの『理論経済学の本質と主要内容』が出て、シュムペーターは「方法的個人主義」を高らかに宣言したことがある。
心理主義と論理(実証)主義を見てきたが、数理主義が登場して、この時代(特有)の「科学主義」の準備が整ったと言えるのではないだろうか。
シュムペーターの仕事は「成長論」でありこれも画期的だが、あとはレオン・ワルラスの紹介であるらしい。
父親のオーギュスト・ワルラスは、元法学者が自分で経済学の研究を始めたヒトで、師範学校時代の友人にアントワーヌ・オーギュスタン・クールノーがいたのだが、この人が数学者でその応用に経済学を研究していた。
父から概念を受け継ぎむしろ独自のこととして発展させ、クールノーから数学の影響を受けて(ただし、レオン・ワルラスはお世辞にも計算が得意ではなく、数学をあくまで「記述的」に用いていたらしい。クールノーは本職である。)「限界」を元手に史上初めて「一般均衡」を(個別均衡ではない、「全体」の話として)概念化することに成功したらしい。
厳密には👇らしい(知らんけれど)
この問題の本質が市場の超過需要関数が「0次同次性」「ワルラス法則」「連続性(対応の場合は上半連続性)」をすべて満たすかどうかに帰することを、デイヴィッド・ゲールとほぼ同時にそして独立に発見
そのワルラスも50年経ってようやくシュンペーターに光を当てられたのだが、反対に言うと、50年前に論文を発表していて、それどころか、父の熱意にほだされて経済学者になる前に志していた文学において、(「一般均衡」ではないが)アイデアの断片を形にしていたらしい。
ある若者がある女性に恋をして求婚するかどうか迷っていた。その若者はそこで、結婚したときに得られるであろう効用を事こまかにリストアップし、他方、結婚したときに掛かる費用を心理的なものまで含めて計算する。そして、結婚したときにかかる費用の方が、結婚したときに得られる効用より大きいことを知って、求婚するのを断念するという筋です。
面白いではないか。
これをどうにか訳せないかと思っているが。
現在ほとんど評価されていないと思しき小説だが、例えば宇沢弘文を感動させた
や、或いは、その前の時代の、
と比べてどうか。
『人間喜劇』に属する作品は、「Aの作品の脇役がBの作品の主人公になる」といった人物再登場法と呼ばれる手法を用いて、相互に関係づけられている。
演出として今でも「現役」だろうと思うが、それは徐々に一般化に向かわなかったか。
なお、早稲田大学の聴講生だった北輝次郎(一輝)が『国体論及び純正社会主義』を刊行したのが、1906年(明治39年)である。