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上杉慎吉の事業が世界史的な意義を持っていたことがわかったので、もういいか、と思ったが、
アメリカが授けたのは、おそらく「ソクラテス・メソッド」ではないかと思うが、
アリストテレスはこれらの方法を科学的方法の本質だとみなしている。
ハーバードの「科学」はイェールの「古典主義」に対峙するものであった。
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日本人がこれを「科学」として理解できるかどうかが、問われる。
科学=自然科学ではないのだ(科学≠自然科学)。
『論理哲学論考』の先駆者としてのクリスティーン・ラッド=フランクリン 橋本康二
前期近代主義には、前期近代主義の拠って立つ「科学」が「あった」のである。
これがわかると上杉の事業へ近づくし、上杉への「歴史的」に見て正統な批判も可能であると思う。美濃部の理解はかなり特殊である。単に「ローカル」ということではなく、(美濃部も留学したのだが、イェリネックの学統の)「インナー」ではないのだろうと思う。
距離が近い事もあり、同じ疑問や感想だからといって、あたかも研究者と同等目線であるかのように誤解されている人もいる。これは逆に距離の近さの弊害だろう。もう少し口辛く言えば、各雑誌に載っておる論文でさえ、論文の体をなしていない好き勝手原稿も多いと思う。これは、某有名雑誌掲載もそうで、
— しろわんこ (@shirowanko7) October 21, 2022
美濃部は決して「素人」ではなかったのだけれど、これが当時の学術状況だったのだろうと思う。エミー・ネーターだって、ヒルベルトに選ばれたのであるし、彼女自身もえり好みをしたらしい。認めない者に対しては容赦ない。そうやって、「学統」が構成されたことが大事である。美濃部は「イェリネック学党(学派)」の「インナー」ではななかったのだ。彼の「イェリネック学」は相当怪しい(美濃部の理解が不十分で、独特な解釈となっているのは、私の偏見ではない)。
「ソクラテス・メソッド」が「科学」なのは、ここでアリストテレスが言うように帰納法の発見があったからだが、ここでは、本質的な事柄がなぜか触れられていない。
「アマルガムな中間項」が鍵であることである。そこから分岐構造を把握する。
アリストテレスはそれが新しいことを生み出すと言ったのである。
上杉の大陸的な観念主義もおそらくこの立場のはずで※、となると、彼の「天皇論」も、日本人にとっては「理解しずらい」はずだが、ならば、こういった研究を読むにも、注意が要ると思うのだ。素晴らしい研究であると思うのだが、「事実」を拾っても、「箱の中の象」は復元されないと思う。
※上杉のマルクス主義への関心から、
19 世紀末あたりから女性参政権の獲得・労働や教育などでの公的・法的男女不平等是正を目的に台頭したリベラル・フェミニストは、最初のフェミニズムである。そのため、私的領域に介入しないことなどリベラル・フェミニズムを批判するフェミニズムである、ラディカル・フェミニズムやマルクス主義フェミニズムが産まれた。
同じく「論理」に精通した
との比較も行ってみたくなるが、大分、論理の趣が異なる。やはり上杉はギリシャ・ローマ(カトリックのフランス)の伝統的な論理に則っているようみ見える。
明治に穂積が言ったように、「それは自然法ではない」となる気がする。
近代史はなかなか厄介であるように感じる。
「ミクロストリア」的な積み重ねがあったと同時に、国際的な大きな潮流の影響もあったし、国内での相対的な潮流もあった。
この2冊は、22年度の読書体験の、1位と2位かもしれない。
天皇制に関して「出現」を論じられているだろうか?
読んでみないとわからないが、これまでの研究をさっと眺める限り、かなり疑問である。自ずとバイアスがかかっている。