非常に興味深い

金子堅太郎もハーバードのロースクール出身。

ハーバード大学ロースクールで法律を学び、帰国後、東京帝国大学の初代行政法講座初代担当者となる(1886年から1888年まで)。』

金子堅太郎 - Wikipedia

 イェリネックの日本受容には2種類あって、美濃部の自由主義イェリネックと、イェリネックの秘蔵っこ上杉らの修正自由主義イェリネックがある※。美濃部に影響を与えて「 」と言わしめたのは、コレではないかと思う。

チョムスキーの言っていることも元来「法学」であって、イェリネックチョムスキーは同じであると思う。経験科学ではなく、純粋演繹のことである。イェリネックはこの性質のために、様々なバリエーションを生んだ。

 

さて、安岡であるが、戦後の学生運動と比較してしまう。
学生運動が盛んだったのは、終戦から数えて20年後ほどである。
戦前も東大生の尊敬する人の第一は、陽明学の影響を受けた西郷隆盛なのであるが、

上杉は「デカンショ節」(デカルト、カント、ショウペンハウアーを一節を意味も分からずそらんじる、高校生の口調を揶揄して。)のきらいがあって、それでも藩医の出であるから朱子学的であるならまだわかるが、それ以外となると、『中国哲学にも興味を示した』と一文で解決されている程度である。むしろ、「蘭方医森林太郎と同じか、欧米学問への傾倒の方が目立つ。中高校時代、英語には反発したが、独逸語は「主席」だった(要は、テスト~定期考査で一番をとった)らしい、この頃からのドイツ派であった。

師匠の上杉は「デカンショ節」、弟子の安岡が陽明学というのは、奇妙な感じがする。
むしろ、上杉の最後の「草莽の士」然とした行動的な態度に、土佐藩士  を自認する安岡が共感したといった趣だろうか。安岡の『』は上杉の指導をどれほど受けたのだろう。それぞれの経歴を比較すると、30年
安岡の著書は大正デモクラシーの最中から終わり掛けのころだろうか。富山で米騒動が起きたのは、大正7年である。時代の変わり目を感じる。上杉とは学統を異にすると考えて差し支えないのではないか。

北一輝が早稲田の本科生だったのか、選科生だったのか、聴講生だったのか気にかかるが、ともなく『』を現わしたのは22歳のときであって、安岡の23歳の著書と比較すると興味深い。

上杉は福井県の出身とは言え、金沢に学び、文化で鳴らした加賀の国の審美的な価値への尊重を感じるが、安岡へたどり着くには、間に近江商人もいれば、京都の御所もあり、堺の洗練された文化もあって、さらにその先にある大都市を越えなければならない。どうにも「別のクニのヒト」と感じる。美濃部も安岡も実践的である。反対に上杉には「殿さま商売」っぽい印象を受ける。