「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ⑧

 

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斎藤隆夫が『回顧70年』で述べる『教場に出てみると講義はさっぱりわからない。困ったが仕方がないから書物勉強を始めた。初めからアメリカの法律などを勉強する考えはないから、主として公法や政治学を関する書物を読破することに心血を注いだ。』とはイェール・システムに沿っていたに過ぎないし、法学に収まらないイェールの特徴ある講義(それが後の、リアリズム法学の隆盛に繋がったと指摘されている。上掲)を受講していたに過ぎない。つまり、本人のエピソードとして伝えるこの段は、そのままイェール・ロー・スクールのパンフレットになっているので、若干不誠実に感じた
この頃は、科学として少数の裁判例から原則と法理を研究するケース・メソッドに対する考えがイェールではまだまだだったので、斎藤隆夫もそこに『注力』せずに大量の本を読んだわけである。

 

斎藤隆夫の事績を紹介したわけだが、「イェールのその後」が実はある。

1961年刊行の『統治しているのは誰か』はダールの有名な著作の1つであるが、この本で彼が行っているのは、ニューヘイブンという都市を動かしている(公式的と非公式的を問わない)権力構造を分析することであり、このケーススタディによって自説を立証しようとしたのである

ロバート・ダール - Wikipedia

1870年9月にラングデルが導入したのがケースメソッドで、老舗ハーバード・ロー・スクールの新しい「売り」として、法曹界を席巻したということで、f:id:MarkovProperty:20220129094336j:plain19世紀アメリカにおける大学付属ロースクール―イェール・ロー・スクールを中心として—

ケースメソッドの手法は、1930年代に米国のハーバード・ビジネス・スクールで始まりました。

ケースメソッドとは?ケーススタディとの違い、研修の進め方までご紹介 | BizHint(ビズヒント)- クラウド活用と生産性向上の専門サイト

ということの内容と若干違うかもしれないが、

日本でも「感受性訓練法」として導入されたというので、興味深い。

もともとエンカウンター(出会い)という考え方は、20世紀初頭のヨーロッパの社会学者や哲学者に見られたものである。地縁・血縁などにより自然発生した社会(ゲマインシャフト)ではなく、利害関係に基づいて人為的に作られた社会(ゲゼルシャフト)において深刻化する疎外状況を憂慮し、真の人間性の回復が待望されていた。

感受性訓練 - Wikipedia

こうして、19世紀初頭の心理学の席巻の話に戻るわけである。

1908年(明治41年社会学ベントレー(Arthur F. Bentley)が『統治の過程』を著し、ジェームズの心理学の影響を受けた政治学者のウォーラス(Graham Wallas)が『政治における人間性』を著し『同書は政治学に心理学的方法を採り入れたものとして『政治家定論』とともに、新しい政治学の誕生を告げる古典的名著と称されるようになった』(P141第一 圧力団体研究の意義,現代政治学(初版),法学書院,1982年4月)。前者は「制度」ではなく「集団」の「過程」に、後者は「制度」を「人間性」から考えることを述べている。

さらに講座における教授活動は、ウィリアム・ジェームズの心理学が更新しつつあった教育理論にも目を開かせることになった。その理論においては、人間の本能的衝動はもはや刑罰の対象ではなく、「教育」によって陶冶されるべき事実であった。そこから「人間性」は「制度」によって変化させられる、という認識が生まれ、人間性を制度から離して考察する従来の政治制度論の欠陥に気づくことになる。新しい心理学による発見の上に政治学を打ち立てるべきである、とウォーラスは考えた。

グレーアム・ウォーラス - Wikipedia

赤字強調は引用者。

そして、シラキュース大学の心理学者オルポート(Floyd H. Allport)が、フロイトを摂取して「方法論的個人主義」を主張し、「方法論的ホーリズム」の論者と論争を繰り広げたのが1920年代のことだ。シカゴ大学で心理学(心理測定)と統計学の研究をしていたサーストン(Louis L. Thurstone)は心理テストの理論化と態度 atttitude の計量化を通じた科学的方法論へ向かっていたところ、オルポートとともに、メリアム(Charls E. Merriam)が同学(シカゴ大学)で開催した政治研究委員会全国会議へ招かれた。この2人がシカゴ学派を中心とした行動論革命の端緒を切り拓いたらしい。

New Aspects of Politics

メリアムは心理学と統計学の導入を主張した。1925年(大正14年

こうして、「事実」への「認識」は「事態」に潜む「態度」へと変更され、「概念」ではなく「命題」が研究されることとなった。
こう考えると、

  • スマリヤンの様相論理体系 K4
  • センの選好順序の二重構造
  • (オルポートの方法論的個人主義的と)サーストンの「態度」

が実は、同じか、かなり近いことを言っていることに気づく次第である。

ところで、考えてみると「政治」といっただけでは、われわれは何も情報を伝えたことにはならない。現代のアメリカを代表する政治学者ダール(Robert A. Dahl)は「政治は人間の存在にとって欠くことのできない一つの事実である。」(Moden Political Analysis,1963)と述べているが、このように命題(proposition)の形をとってはじめてわれわれにとって意味のある情報となるのである。われわれは、意味のある情報の基本単位は命題であると考える。真偽の対象となるのは命題であって、新カント派のようにその構成部分である概念とは考えない。概念はある共通の性格を持った事象の集合に与える単なる名辞以上のものではない。学問研究において、概念に要求されることは、その概念によって指し示される対象が明確に特定されていることであり、少なくとも、ひとつの議論の中では概念はつねに同じ意味内容で用いられなければならないということである。いずれにしても、政治とは何か、その完全な定義を求めていたずらにエネルギーを浪費することは決して得策ではない。なぜなら、われわれの目的は政治の経験的研究を進めることであって、政治の定義はその第一歩に過ぎないからである』(PP3-4.1現代政治学の性格とアプローチ,現代政治学
政治の定義はその第一歩に過ぎないからである』が一つの命題である。

第一歩
↳概念〈は〉である
 ↳名〈は〉同じ意味のまとまりを指示して callされる( 呼ばれる)ことである。
  ↳x≠x(同位律の否定)を含意する「0」は概念に含まれない
   ↳「1」を定義できない

ということで、概念即哲学と定義からの「卒業」を指向しつつ、抽象世界にとどまらずに経験的で明証的な方法へ向かうのであった。
これは実証主義の考え方であって、その方法が、理論と論理を分ける分水嶺となる。理論が評価を与え、論理は評価の推移の、、、確認しかできない※。
※だから、「論理国語」で、科学リテラシーの向上を図ることを直接の目的とすることはできない。「「科学リテラシーの向上を図る」ための基礎」を与えるだけである。これは「変数化」できるので、「Xの基礎」を与えるのが、「論理国語」の基本的性格であって、Xに認識作用を含むので、すなわち「認識作用の基礎」を与えるのであるから、再帰的ならば、自由な〈判断〉を排除した評価形式ということになる。

ダールは、『1946年からイェール大学で教鞭をとり、1986年に退官。1966年から1967年までアメリ政治学会会長を務めた。1995年、ヨハン・スクデ政治学賞を受賞。 アメリ政治学界の「長老」と評される。旺盛な著作活動と、沢山の優秀な政治学者を育てたためである。ダールのおかげでイェール大学の政治学部は国内屈指の影響力を得たという者もいる[誰?]。』(Wikipedia-ロバート・ダール)ということで、ヨハン・スクデ政治学賞はいわば「ノーベル賞政治学賞」のような響きをもつことであろうか、とにかくイェール大学がここに大輪を広げたわけであるが、そのダールが駆使したのが、ケース・スタディであるらしい。

リンクを張ったビジネス・スクール由来の「ケース・スタディ」「ケース・メソッド」の違いは(スクールであるところの)教育方法の違いであって、研究方法のことではない。むしろ、昨今のアクティブスタディーに繋がるハナシである。

もともとエンカウンター(出会い)という考え方は、20世紀初頭のヨーロッパの社会学者や哲学者に見られたものである。地縁・血縁などにより自然発生した社会(ゲマインシャフト)ではなく、利害関係に基づいて人為的に作られた社会(ゲゼルシャフト)において深刻化する疎外状況を憂慮し、真の人間性の回復が待望されていた。

感受性訓練 - Wikipedia

「「作者の気持ち」問題」が何を指すのかわからないと聞くと、「「新見南吉」問題」と答えるようにしているが、受講スタイルとしてはアクティブスタディーであり(「ケース・メソッド」)であり、本懐は「対話による「真の人間性」の回復」であるのではないかー発達年齢に応じた情操教育としてあるーと思っている(ので、上手にやらないと、反発される原因がすでにある)。
つまり、「ケース・メソッド」と言っても、テキストにケースを求めてもよいし、事態にケースを求めてよいのは、事態は科学的に取り扱える「事態」として言語化されるからであった。

マルティン・ブーバー1878年明治11年02月08日 - 1965年(昭和30年)06月13日
波多野 精一       1877年(明治10年07月21日 - 1950年(昭和25年)01月17日

ここで波多野精一が出て来る。藤澤清造の(干支)1周り上ほどの年齢である。
波多野精一が東京専門学校(1902年・明治36年から早稲田大学に改称。)で教えるようになったころ(1900年・明治34年西洋哲学史講師)にはもう斎藤隆夫は卒業していなかったし、早稲田大学を去るか去らない頃(1917年・大正6年に早稲田騒動で辞職。)に、横光利一早稲田大学に居たのか居なかったのか(1916年・大正5年文科予科入学、1917年・大正6年1月休学、1918年・大正7年英文科編入。)、これが絶妙で、波多野精一はカントを研究していたのだ。
上でさんざん眺めた「科学(化)」とは、カントからの「卒業」だったのであるから。

早稲田騒動は鳩山和夫が校長を務めたときに起きたらしく(第3代1890年・明治23年8月 - 1907年明治40年4月1日)、鳩山和夫の退任の1907年に、校長・学監制から総長・学長制へ改まったということで、同時期のイェール・ロー・スクールの変革を思い出させるが、それはそれとして、後には第2代の学長となる天野為之(就任時期は1915年8月 - 1917年8月)が、初代学長の高田早苗(就任時期は1907年4月1日 - 1915年8月)が学監だったころに、その後釜を狙って、鳩山和夫に近づいた経緯があったらしい。大隈重信が間に割って入って高田早苗を留任させたが、自身が組閣する際に(第二次大隈内閣)、高田早苗を文相に引き上げた。それで、第二代学長に天野為之が就任するのだが、任期切れということで、大隈重信が(自身と共に)すでに辞職していた高田早苗を再任させようと目論んだらしい。早稲田大学は、高田派と天野派に割れたわけだが、天野派の石橋湛山のもとに、斎藤隆夫も足を運んだらしい。

 

👆の石橋湛山批判は疑問に思う。これこそ「態度」分析にお誂え向きのテキストだが、石橋湛山の「小日本主義」は、「小英国主義」を評価目的とすべく、日本の伝統的な政策論争の選択を行ったのであって、要は、古代から似たような議論はあって、「小日本主義」は国内政治を意味的な閉鎖空間とする一種の「モンロー主義」、かつだから、「相互主義」だから、こういう発言になるだけである。「大日本主義」は一種の「コスモポリタニズム」で、統一基準に統合された世界を指向するから、場合によっては侵略的である。ここでは、石橋湛山の「態度」、それを受け取る現代人の「態度」が見られなければならない。「心理学的政治学」の成果である。


騒動自体は別にどうでもよいのだが(いや、時代の変革の指標として大事である。なにしろ、大隈は「腕力」頼みで騒動を起こしやすい人で、「大隈後」に大正デモクラシーも起こったようなものだ)、ここで、鳩山和夫斎藤隆夫波多野精一、横山利一がニヤミスした(かもしれない)ことが大事だ。
横山利一は「好きな先生」が居るから京都へは行かず、早稲田大学を志望したのだが、波多野精一が大学を去る前年に同居人の女性に裏切られるなどして年が明けて早々休学し、京都山科へ行って遊んでいたら、波多野精一京都大学へ来たのだから、不思議な縁なのか、ただ、京都大学と山科だと、今なら電車で1時間もかからないようだが、当時だとどうだろう。
横光利一は、休学中の1917年(大正6年)7月に『神馬』、10月に『犯罪』を発表している。それへのカントの影響はわからないが、

新感覚派」と名づけられた(「新感覚派の誕生」『世紀』)後,横光は自らの文学的立場を明確にすべく,1925年2月,評論「新感覚論―感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説―」(原題「感 覚活動―感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説」『文芸時代』,以下「新感覚論」)を発表した。
P2 はじめに

Meiji Repository: 共通感覚としての新感覚 -カント『純粋理性批判』が照射する横光利一『花園の思想』の新たな相貌-

ところが、後に、

私は新感覚派時代に感性と知性との分類に閉口して,前後の考へもなくカントに首を突き込んでみたこともあつたが,カントの感性と知性との分類のごときものにしても,その間に感覚や 悟性や理性が介在してゐるばかりではなく,そこに統覚があつて知性となり,さらに図式にま で発展して知性の充実の企てになつてゐる。しかも,このやうな微細な分析にしてからが,私にとつては所詮は感性的なあやふやな波に等しいと思はれた。
P15同上

(「覚書一」,『文藝』第二巻第四号,原題「覚書」,1934年・昭和9年 4 月)

と翻す。『機械』はすでに1930年(昭和5年)『改造』9月号に掲載されていた。
横光利一のカント理解は

自分の云ふ感覚という概念、即ち新感覚派の感覚的表徴とは、一言で云ふと自然の外相を剥奪し物自体 躍り込む主観の直感的触発物を云ふ。

「新感覚派、機械仕掛けの夢――稲垣足穂と活動写真のメディア論」

(「感覚活動――感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説」(『文芸時代』大14・2、のち「新感覚論」と改題))

であるから、いずれの時にか、このアイデアを捨てた。いつからいつまでが横光利一自身が考えた『新感覚派時代』だったのだろう。
掛野剛史が『新感覚派時代の横光利一―〈生活〉〈人生〉〈主観〉の磁場に抗して―』(『日本近代文学』第69集, 日本近代文学会,2003年10月)をみたいところだが、まぁよいだろう。

せいぜい『ラディカル』くらいの話ならば、プロレタリア文学者と論争することはないし、『純粋文学』における『四人称』もないし、その後の文芸銃後運動もない。