「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ④

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

北村 透谷 1868年12月29日(明治元年11月16日)- 1894年(明治27年)5月16日

吾人は人間に生命ある事を信ずる者なり。今日の思想界は仏教思想と耶教思想との間に於ける競争なりと云ふより、寧ろ生命思想と不生命思想との戦争なりと云ふを可とす。

文學界 五號」文學界雜誌社  1893(明治26)年5月31日

北村透谷 内部生命論

もちろん、ここで『生命』は life のことではない。
おそらく心理学のことある。
北村透谷は恋愛至上主義ニューイングランドから受け継いだということであるが、心理学は誰に学んだのだろう。

ところで、白樺派の方は、

トランセンデンタリズム(引用者注:汎神論的超越主義、超絶主義)の中心人物であるエマソンは、代表作『自然』の冒頭部分で、「頭を爽快な大気に洗わせ、無限の空間の中にもたげるとき」、すべ ての卑しい利己心がなくなって、「私は透明の眼球となる。私は無であり、一 切を見る。「普遍的存在者」の流れが私の中を循環する。私は神の一部、一分 子である。」と述べています。

新ロマン主義の再解釈と白樺派 ――武者小路実篤を中心に―― 米山 禎一

これが志賀直哉にも伝わって、共感を得ていたなら、腑に落ちる話だ。彼らのロマンチシズムはこのような『自然』的背景を持っていたのだ。

同じ月にウィリアム・ジェームズが生まれ、エマーソンは名付け親になった。

ラルフ・ワルド・エマーソン - Wikipedia

ウィリアム・ジェームズの心理学は夏目漱石に、ラルフ・ワルド・エマーソンの超絶主義は白樺派に、そして実は、シェリングを挟んで、アルトゥル・ショーペンハウアー堀辰雄或いは横光利一に流れてゆくらしい。

ところが奇妙なのだ。

『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義文学論争を展開し 

横光利一 - Wikipedia

この人の話が面白い。

一般的に日本の近現代文学史では、川端康成横光利一といった新感覚派の登場がモダニズムの始まりだと言われています。

モダニズムとはなにかというと、すごく単純な意味では「現代風」みたいなことになるんですけど、実際にはそうじゃないんですよね。モダンを近代と訳してしまうとそれってただの時間の流れを区切っただけのように感じるかもしれませんが、実際には中世から近代に変わったときになにが起こったのかといえば、それは「価値観の変化」なのです。

まるで数字の「0」のような話。 - 文芸素人講釈

近代の前にはキリスト教があったということが続く。
そこまでは同感である。

で、実用性がなによりも大切だと言う一方で合理性にこだわる人にはこう申し上げたい。

じゃ、数字の「0」の合理性について説明してください。

文学について詳しいけれど、並行してあった、論理学と数学の緊張を知らなかったのかも?しれない(失礼なことを言って、まことに申し訳ございません)。
何を以て『実用的』と謂うかはわからないが、自然数論は「0」を実用化する試みだったんじゃないかな。つまり「量」は「数」へと、理論上厳密に、なった(19世紀に関数を整備した、かのレオンハルト・オイラーは、『数学は量の科学(Wissenschaft)である』という言葉を遺している※。フレーゲは自己の用法で今で謂う「述語」を「関数」と呼んだ。そのせいかは知らないが、フレーゲは最後にー「概念」でー失敗する。「概念」で成功するのはネーターまで待たなければならなかった)。
ハミルトニアン四元数(高次複素数)を考えたウィリアム・ローワン・ハミルトンは幾何学を「空間の科学」、代数学を「時間の科学」と呼んだが、これは特に突飛な発想ではなかったようだ。

犯人であると同時に事件に無関係の「私」も存在し、事実はどちらの状態に収束することもない……わけないか。うーん、私も混乱してきました。

〈認識の揺らぎ〉横光利一『機械』―四人称小説という試み | 四次元ブックガイド

それをパラドックスと謂うと思うのだけれど、(「シュレディンガーの猫」というよりも)それは「ラッセルのパラドックス」だ。

 

  つまり、横光は何をしたか?

 

フレーゲのごとき機械的な文章に在るそれを、ラッセルの代わりにパラドックスを指摘したのだ。

ラッセルのパラドックス(英: Russell's paradox)とは、素朴集合論において矛盾を導くパラドックスである。バートランド・ラッセルからゴットロープ・フレーゲへの1902年6月16日付けの書簡における、フレーゲの『算術の基本法則』における矛盾を指摘する記述に表れる[1]。これは1903年に出版されたフレーゲの『算術の基本法則』第II巻(独: Grundgesetze der Arithmetik II)の後書きに収録されている[2]。同じパラドックスはツェルメロが1年先に発見していたが、彼はその発見を公開せず、ヒルベルトフッサールなどのゲッティンゲン大学の同僚たちだけに知られているだけだった[3][4]。

ラッセルのパラドックス - Wikipedia

『機械』の発表が1930年(昭和4年)。欧米の25年遅れで「モダニズム」に到達した。
そして、

志賀直哉とともに「小説の神様」とも称された[6]。

横光利一 - Wikipedia

そのころ欧米はどうであったか。

傑出した代数学者アーヴィング・カプランスキーはエミー・ネーターを《近代代数学の母》と呼んだ.同じく傑出したソーンダーズ・マックレインは「自覚的な研究領域としての抽象代数は,エミー・ネーターの1921年の論文《環におけるイデアル論》からはじまる」と主張した.ワイルは「彼女の仕事によって代数学の様相が変わった」と言った。以後これらの発言の正当化を試みる.
 ファン・デル・ヴェルデンによれば,ネーターの数学的信条の精髄はつぎの言葉にはっきりとあらわれている:

 数や関数や作用などのあらゆる関係は,それらが個々の例から解き放たれて概念的な連関にまでさかのぼったとき,はじめて明快なものになって一般化が可能になり,真に実りのあるものになるのである.

P113 第6章 エミー・ネーターと抽象代数の創成

数学なんて抽象的で「当然」と思われるかもしれない。

第二次世界大戦あたりを境にして数学の潮流は大きく変り、理想を追い求めるというロマンチシズムよりも抽象性を貴ぶという方向に傾斜したがジーゲルはこれが不満で、(中略)ジーゲルはこの書物(引用者注:サージ・ラングの『ディオファントス幾何学』。この本にはジーゲルが証明した定理なども紹介されていた。)の記述様式を慨嘆し、イギリスの数学者モーデルに宛てて手紙を書いて「ラグランジュガウスなど、数論の偉大な師匠たちが開いた数論の花園に闖入した一匹の豚のようだ」と酷評した(中略)
ジ―ゲルが「1匹の豚」にたとえたところを、岡潔は日本人らしく冬景色になぞらえたが、根底に横たわる心情は同じである。

PP201-202 

戦後と言えば、心理学の様子も変わって、

20世紀初頭には、無意識と幼児期の発達に関心を向けた精神分析学、学習理論をもとに行動へと関心を向けた行動主義心理学とが大きな勢力であったが、1950年代には行動主義は批判され認知革命がおこり、21世紀初頭において、認知的な心的過程に関心を向けた認知心理学が支配的な位置を占める[6]。

心理学 - Wikipedia

なんだかなぁ、と思うのは、1956年(昭和31年)に、増淵恒吉が『山月記』を採り上げ、「大正新教育」をリブートし始めたのであった。

それはともかく、徳田秋声を見ようにも、「○○主義」「○○文学」「○○派」「○○イズム」と目白押しで、何が言いたいのか、よくわからなくなってくるのだ。
これは法学もそうなのだが、経験的に見るのが至当で、経緯を(後付けで)解説してもらうのがわかりやすい。

iceteamilk.hatenablog.com

面白くわかりやすい。非常にためになって、ありがたいことだ。有斐閣の『法思想史』は読めば読むほどわからなくなるきらいがある。或る程度「わかるよすが」が別にあって読まないと、解説にすぎず、、、、、、、原理の紹介を欠いてまとめてある風情なので、混乱するだけなのだ。すなわち、「わかる」理由を欠いている。
こちらは、「流れ」を素直に書いているので、わかりやすい。ともかくも、そういうこと、、、、、、だったのだ。「流行のスタイルをやりつくして飽きたら」といった具合にグループが凌ぎを削っていた、いっそムーブメントと考えた方がわかりやすいのかもしれない。そうなると、音楽業界に近づく。フラワームーブメント、パンクムーブメント。或いはいちいち「ムーブメント」と付けない。それでも、エアロスミスピストルズも「ヘビーメタル」と今では思わない。当時はそう呼ぶ「トライ」くらいは、記者の感性によっては、あったと思う。そんなバカな、と笑うかもしれないが。