フレーゲのF、漱石のF

 

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「夢」というと、どうしても精神医学のフロイトユングに結び付けて考えてしまい、

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と比較してしまいたくなる。
しかし、それはおそらく、間違いだろう。

この誘惑は、村上春樹も取り上げられていることが、後押しする。
しかし、それは小谷野敦が言う通り、オカルトなのだ(いや、私は、実はユダヤ人の文化だと思っていて、イェリネックからチョムスキー、最近なら  まで、彼らには共通のロジックがあり、しかし、表現形式はそれぞれであるのに過ぎないと思っている。まるで日本人が何を描いても「起承転結」となるようにーこれは誇張表現だが)。

夢十夜』はやはり

漱石というと、F+fが有名で、奇しくももフレーゲと同じ「F」であるが、数学者であるフレーゲほどこなれたことが言えなかった。しかし、企図には偶然、近いものがあったと思う。
フレーゲは直観を批判したが、遂にはそれを、原基を人間からテキストに移植する方法で実現しようとしてしまう愚を犯した。

すなわち、足立に言わせると、『しかし,現実には,悲劇的破綻へ向かってさらに一歩踏み出してしまう』(足立,P187)文脈において、フレーゲ自身の定義を持ち出したのであった。
結論から遡って言えば、『フレーゲが「基数原理」から始めればよいことに気が付いて』『集合論が使えるようになった』らそれで済んだ話であり、『20世紀初頭、集合論から矛盾を生じた騒がれた』のは容易に修正の利く大したと話ではなかったとの評価である。

すなわち、「基数原理」を使わないから「矛盾が生じ」る悲劇的な騒動を生じた、従って、集合論が正しい、と言いたいのだが、フレーゲを実際に追い詰めたラッセルを見ても、どうだっただろうか

20世紀初頭にバートランド・ラッセルが発見した、ラッセルのパラドックスによるフレーゲの素朴集合論の欠陥を説明する中で提起された

型理論 - Wikipedia

足立はやはり数学者なので、論理学者であるラッセルの「曖昧さ」への憎悪、はっきり言ってしまえば、数学者特有の直観への信頼を憎悪していたことを、見ないで済ましている。ラッセルにはどうしても許せなかったようだ。
この限りでそれは「人間」である。人間を原基として考えることである。数学が心理学的であることが許せなかった。ラッセルのパラドックスが何故、床屋で説明されるか。
ラッセルにとって重要だったのは、論理から人間原理を追放することだったのだ。
その点、フレーゲは甘かった。最後に「人間」をそこに残してしまった。
足立が指摘した『抽象的普遍的先験的実在』を捉える人間特有の〈判断〉への信頼である。それを人間から取り出して再現する必要がそもそもなかったのであった。

 

 基数原理 ♯F=♯G ⇔ F≈ G 

これは、全単射(Fの集合の対象となる、、、、、要素の一つ一つがもれなく、Gの集合の対象となる、、、、、要素の一つ一つと対応する※1)が存在するとき、『FとGは同数である』ことを表現しているらしい。「対象となる」ことが大事であるとのことだ。
この「対象となる」のは、フレーゲの言う、平行線の定理から(2線が平行であることの説明要因として)求められることである。足立はそれを簡潔に無限遠点をして言う※2

※1 説明になっているかわからないうさんくさい言い方ではなく
全射・単射・全単射の定義をわかりやすく~具体例を添えて~ | 数学の景色

 

さて、夏目漱石のF+fは、一周遅れて、むしろこれに似て来るから厄介だ。フレーゲにしても漱石にしても実際にそう〈判断〉できることを言っているのではなく、「そう〈判断〉できること」を形式的に表現できることを言っているのだ。

遂には、『夢十夜』で、概念としての「自分」を操作して、ある種の自己言及を言ってしまった。これもまた「心理学的」なことであって、精神分析と異なる。

パウリの天才的な業績はユングと関係がない。
おそらく漱石は、そもそもユングと関係がない。

ユングに傾倒したのは村上春樹である。
問題は、その教科書が、夏目漱石村上春樹を並べることで、二人に何かしら共通の仕事があるかのような印象を与えることである。
夏目漱石の「科学」と(在るかは知らないが)村上春樹の「科学」は異なる。
夏目漱石の「科学」は心理学的論理主義からなる記述の規範のことである。要は、計算式だと思っているのだろう。心の計算式を観察及び内観にもとづき再現できるとの信念である。
村上春樹ユングを信用したいと言っているだけである。
しかし、それは小谷野の言う通り、ただのオカルトである。
だから、結局それを借りた気持ちを言っているだけである。村上はそういった気分を良くする意匠に凝っているということである。

そうすると、これはデシャンである。

ドリーの批評の中身はとりあえずどうでもよい。村上自身というより、村上にまつわる言説の醜悪さを転倒すること、そのことに意味をもたらした。それがアートである。
揶揄えばよいということはないし、ファンにとって「悪口」は度し難いだろうが、村上春樹の「トイレ」も「私」のトイレも同じである。そう言い得ることは、村上の隠れたイデオロギーを刺すことはできる。
そういう読み方を許さない醜悪さが一時期横溢していたのは、言うまでもない。
係る「文脈」には「批評」乃至「アート」で対抗できることを示した功績は、ある。


※余談だが、これの何が凄いかと言うと、これで「複素数と実数の濃度が等しい」ことが証明できてしまうからだ。ここにおいて、足立の説明は、ペアノとカントールも目論見通りカバーしていることになる(実際に、ペアノの項では、「ペアノ曲線」にも触れているようだが、自分の目的がもっぱらフレーゲにあったので、飛ばしている)。

実数と虚数は、どちらが数が多い(濃度が高い)のでしょうか? - ふと疑問に... - Yahoo!知恵袋

カントール対角線論法真の威力、、、、ガウス平面(複素平面)が違和感なく説明できてしまうことにあったのだ。ガウスは本当にすごい奴だ。

いやそういうことを言いたいのではない。
これで、所謂「アキレスと亀」問題、すなわち、第3問題と、その前の第2問題の違いがわかる。第2問題は実線上の話で、第3問題は平面上の話だったのだ。
ムカシ描いた画を残しておいてなかった。

二つの平面は「表裏反対」に貼り付けられ

リーマン球面 - Wikipedia

これを無限に捩じって距離を稼いだのだ。そうすると私の勘だと亀を追いかけるアキレスと(正則であることから)「滑らかに」入れ替わるはずなので、そこから、、、、「追い越して」しまう。スメイルがテニスボールの裏表を数学的にひっくり返すのを見て「裏」と「表」を区別すれば「平行線問題」に使えると思いついた。誰もが、「数学的に」、「アキレスと亀」の問題を説明できると豪語するので、「数学的に」説明して見せたのであった。大したことのない私の『青春の夢』である(cf.クロネッカーの青春の夢)。
誰にでも青春はある。
ちなみに、リーマンはガウスの弟子である。