「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ③

 

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誤用率が非常に高い「~たり」の用法!その正しい使い方とは!? | こぶたの鉛筆 - ライターのための情報メディア

「~たり~たり」 | ことば(放送用語) - 放送現場の疑問・視聴者の疑問 | NHK放送文化研究所

なるほど気を付けなければならない。
文章が思ったようにならないのは、こういう点への注意が細心でないのかもしれない。

 

1913年(大正7年)は本当に大変な年だったけれど、その前年の1912年(大正6年)に志賀直哉が『城の崎にて』を発表している。

心境小説としての趣が強い。

城の崎にて - Wikipedia

しれっとこう言うのだけれど、心理学が世界と世間を席巻しているさまは見た。
不思議な位置づけである。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

まさにこの方の回答の通りで、「悠然」と「超然」は違う。
「悠」は「心に長く感じられる」様(=然)だ。

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「悠」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習

「超」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習

はて考える。

悠久の反対語・対照語・対義語: 反対語大辞典

「悠久」の対義語は「瞬間」だ。「悠」と「瞬」は対照的で、「心」と「目」乃至「足」だ。
或いは、『城の崎にて』の本文中のキーワードに「寂しさ」がある。
これは読み流してしまいそうだが、

寂しい・淋しい(さびしい・さみしい)の対義語・反対語

対義語は、「賑やかしい」だ。ここで

  え?

と思う。志賀直哉は、ロジックを仕込んでいる(いや、初めてではない。『小説の神様』でも仕込んでいた)。構成要素を見ても明らかに、、、、3段論法だ。

(先生の現代文授業ノート)志賀直哉「城の崎にて」

ここで改めて、「見る」ことの意味を考えてみる。

第2章本性への忠誠 自然を写生する

異邦人で問われていることは「明証性」だ。

「見る」ことが「反抗」の第一歩である。
「瞬き」が死への引き金だ。

 太陽がまぶしかったから

ほど有名な科白はない。しかし、カミュ志賀直哉のだいぶ後にこれを書いた。
志賀直哉が影響を受けたことはない。

しかし、『寂しい嫌な気持ち』が『寂しさ』に変わるとき、存在の孤独と生死の近さ、つまり、『偶然』と謂ったときの希少性より先に、比べられて今「在る」ことの意義がある。それが「こころ」を「超」えて「在る」のが、志賀直哉の『心境』だろう。
それはカミュの「明証性」に近いと思う。
そして、カミュを挟んで志賀直哉の反対側に、藤澤清造が居る。

したがって、ここで気に留めたいのが、「明証性」と「実証性」の違いである。
日本人に実証性を与えたのは、仏教である。
ならば、これはどうだろう。

note.com

「怪異」が起きて一大事であるというので、陰陽師が占うのであるが、先例を添えて報告する。ここにあるのは、観察を通じた相当(の発見)を以て関係づける態度である。その確からしさをこの稿では「明証性」と言っている。簡潔に謂えば、突き合わせたときの間違いのなさである。
その観察に彼我を位置づける「対置」に抗いを見つけたのがカミュである。「見る」即「反抗」である。

「実証性」はそれで済ませられない。単位を与えて体系化されたとき、意味を返すのが「実証」である。それに沿うようにして語彙セットを整えたのが理論であり、整える際に評価を与えるのが論理である。

ここに「一切衆生」を構成する「こころ」を持った人が生まれた。
仏教の目的は仏性を悟ることである(犬にも仏性はある。或いは、ない)。
志賀直哉にそんなことは関係がない。存在として孤独である。
一方の藤澤清造は、孤独な存在である。

地域性と文学ー鈴木三重吉「千鳥」「山彦」「小鳥の巣」を中心に,槇林滉二

鈴木三重吉の『小鳥の巣』は1910年(明治43年)は、田山花袋の『蒲団』は1907年(明治40年)、島崎藤村の『破戒』は1905年(明治38年)で日露戦争終戦の年である。1910年(明治40年)に大逆事件が起こった。幸徳秋水が萬朝報に居たが、萬朝報は当初ゴシップ紙であった。世間はすっかりゴシップに慣れていた。

萬朝報 - Wikipedia

そのしばらく後に、同郷の室生犀星と交流する。

1913年(大正2年)2月、半年ぶりに上京し[6]、根津権現裏に下宿。藤澤淸造、安野助太郎、廣川松五郎らと交流し、佐藤春夫山村暮鳥を知る

室生犀星 - Wikipedia

藤澤 清造 1889年(明治22年)10月28日 - 1932年(昭和07年)1月29日
室生 犀星 1889年(明治22年)08月01日 - 1962年(昭和37年)3月26日

同年の生まれである。室生犀星は複雑な生い立ちを持っていたらしい。室生犀星犀川左岸の千日町のうちでも橋(現在、新橋。犀川大橋のひとつ下)を渡って西側の裏千日町とかつていわれたところで生まれた。橋を渡って2辻目に松田傘店があって、和傘の中でも、雨の多いこの地ならではの、丈夫なしつらえの糸が美しい金沢傘を今に伝えている。
室生犀星は二回り以上歳下である堀辰雄と親しかったらしい。

堀 辰雄  1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)05月28日

フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した

堀辰雄 - Wikipedia

室生犀星にも夢の話があるが、どういうつもりで書いたのだろう。

室生犀星 ゆめの話

 

また、その「客観性」との違いを考えると、ようやく徳田秋声を考えられる。