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わがままと思うかもしれないが、それはできない。失敗したところで誰の迷惑もかけない。ぼくは独力でやりたいんだ
大正デモクラシーが終わった後に何が残ったかを考えると、考えさせられる。
『洟たれ小僧』向けじゃないなら、誰に向けて大人の大衆小説家たちは書いたか。
それが梶原一騎へ受け継がれてゆく。
一方の『銭ゲバ』では主人公の能力は一切疑問を持たれていない。
大正新教育の生み出したものが「小僧の反対物」だったとするとわかりやすいかもしれない。それは本当に「子ども」だったのだろうか?
全文を読んでいない。
一方Aは人知れず悪いことをした後のような変に淋しい気持ちが残っていた。
やはり志賀はロジカルに考えていたのではないだろうか。
さびしいが「寂」ではなく「淋」と表記されるのはどうだろう。
シンプルに答えると、「心が空しい」か「心が水浸し」かの違いだろうか。
要は、小僧に鮨など食わせて、うしろめたさを感じる貴族と、その犠牲となったことを小僧に自覚させてしまうことにうしろめたさを感じる著者が呼応しているのではないだろうか。キツネは「断絶」の装置として機能するように思う。