門前の小僧習わぬ経を読む

 

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「女」「子ども」「地方」が「女」「悪」「神」に変わったのは、大正デモクラシーが昭和ファシズムで変質したのではなく、大正ナショナリズムが昭和ナショナリズムに発展しただけだろう。

それは大正新教育が、庶民(渡辺政盛など)の反応を取り込みつつ変遷を得て、「小僧」(人間像)から「少年」(人間観)へと向かったからである。
それが完成したのが昭和期であって、このナショナリズムが実は「小日本主義」に過ぎないのは、

 

また、小林道彦は、統帥権憲法的秩序に適合させようとした「立憲主義的軍人」としての児玉像を提示したが、長南政義は、新史料を使用し小林道彦の児玉理解には史料的誤読が多いと指摘している

児玉源太郎 - Wikipedia

 

 

山縣有朋児玉源太郎田中義一→宇垣一誠→永田鉄山

児玉が成し遂げたのは、「立憲的」なことではなく、「国家的」なことであっただろうから(ただし、資料分析の結果ではない。)、美濃部ら(その実、一木ら、地方の商業資本、地方の産業資本、内務省)と平仄を合わせつつ、むしろ「四将軍」(と天皇の行政的権能)を抑え込んで、エリート指導による国家の一体的な発展を企図してその効果としての建軍を指向したことからわかる(これが立憲的な「美濃部革命」の内実である)。
これは日本の近代化路線の正統であって、陸軍内部では最後の藩閥の首魁、山縣派の伝統でもあったのは、宇垣の「民軍一体」発言に集約される。これが大正デモクラシーと無縁でなかったのは、田中の作った在郷軍人会システムと普選の関係からわかる。

一方で、「四将軍」側は「皇道派」と名付けられたばかりに、「統制派」より封建的である印象を与えられたが、「統制派」が実は、もちろん民主主義と一体になった、皇室主義だったのであるから、政治的な偏見であったが、彼らが実は帝国主義と結びついた「大日本主義」と考えるとわかりやすい。

つまり、統制派と行動派の争いは、実は、或いは荻原重秀と新井白石を祖に持つ、小日本主義大日本主義の争いで在り、近代以降は、(皇室を巻き込んだ)国家主義帝国主義の論争となっただけに過ぎない。

すなわち、大正デモクラシーと昭和ファシズムが対抗している歴史的事実はなく、大正と昭和のそれぞれの近代主義としての国家主義(と帝国主義)があったに過ぎない
実際、大正デモクラシーはその後の「右傾化」を何一つ妨げてはいない。

「永田の前に永田なく」は、永田がこれを統合した功績による。
しかし、それが永田の天才的事業とは思えず、ロジックがそれを可能にしたはずで、おそらく国際法の理解の変化(対外国内法から二元論へ)がそれを与えただけだろうと思っている。

 

梶原一騎の生まれた1936(昭和11)年には長嶋茂雄(2月)、篠原とおる(4月)、横尾忠則(6月)、柳田邦男(6月)、つのだじろう(7月)、戸田奈津子(7月)、川口浩(8月)、梅津かずお(9月)、亀井静香(11月)、さいとう・たかお(11月)、榎本喜八(12月)などがいて、1937年は、劣らず多士済々であるが、なかでも、阿久悠が居る。

1936年 - Wikipedia
1937年 - Wikipedia



太宰治の『走れメロス』が称賛される意味がさっぱりわからなかったが、要は、破綻した人物の与太話にすぎないのであるから、警察の調書でも見れば(見たことがないので知らないが)珍しいことはないだろうし、いい大人が「こんな奴には騙されるな」と教訓にするならわかるが、どういったわけだろうと訝しく思っていたのだが、梶原一騎でようやくわかった。

なるほど、夕焼けである。

太宰が内心嘯いたであろう

  お前の借金はお前の借金、俺の借金〈は〉お前の借金
  がんばれ
  お前の頑張り〈が〉俺の頑張りである

との屑そのものの物言いには、実にコピュラが効いているのであるが、この屑ゆえの彼我の倒錯は、大正デモクラシー以降は、黄昏の影が映し出す彼我の一体感となったらしい。

そこらへんの事情を阿久悠は吐露する。

一つ間違うとアブナ絵になりそうだが、山口百恵は、アブナ絵と感じさせる哀願の微笑と媚の健気さを拒んで、あくまでも無表情で、凄味さえ漂わせていた。・・・のちに大人たちが逆上し、信仰に近い存在にまで彼女を高い存在に押し上げ、『時代と寝た女』とか『菩薩』と呼ぶようになるのだが、けはいだけならその時にあった。透明な妖気である>


榎戸 誠
ベスト50レビュアー
5つ星のうち5.0 阿久悠は、なぜ山口百恵の作詞をしなかったのか
2016年11月22日に日本でレビュー済み

あぶな絵とは - コトバンク
健気とは - コトバンク
要は阿久悠はここで或る「女」を見下しているのだが、志賀直哉は『小僧』でそれをやったのであるが、それでいて、阿久悠は『菩薩』を志賀は『神様』と出すのであった。

志賀直哉のふるまいしか持たない『小僧』は、動員機序に従い、「神」がキツネになるとき、与えられたはずの恩寵と犠牲として与えられることに在る態の倒錯を以て『淋しさ』から『残酷』へと評価が転じた。

「悪」とは秩序の倒錯であり、「神」とは与えられない何かである。

『大リーグボール』も「悪」であり、阿久悠は「悪学」を勧めた。
山口百恵からは表情を与えられず、榎本喜八はタイミングがない世界に到達したらしく、それを『神の域』と呼んだ。

榎本喜八 - Wikipedia

そうして彼らは何かを伝えることに熱心で、しかし、うまく伝えられなかったか、「終わり」を迎えるかしたようだ。
『熱血』とは要素から実在へ、人間像から人間観への転換の指標だったのだ。つまり、人間には、ふるまいの模倣としてでなく、鑑みられて伝えられる(べき)何かがある。
大正期の渡辺の芸は昭和に再び大きく花開いた

大正デモクラシーは、永田鉄山梶原一騎阿久悠という3人の「天才」を生んだのだ。この中で一番成功したのは阿久悠である。