永田が「至宝」となった年

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

近代日本の戦前までの研究で、自分の興味範囲では、加藤陽子と川田稔が優れた研究をしたと思っていて、それに加えて長南政義が新たに画期を為したと思っている。

例えば、日本政治史というものがあって、その中で政党史を取り扱うこともできるが、日本に決定的な影響を与えた陸軍に於いてはそういった試みがなされてこなかったように思う。講談調の列伝がせいぜいではなかったか。その点、この3人は、まさに「歴史を塗り替えた」と思っている。ようやく神話から一歩踏み出したのだ。その意味でその先鞭をつけた加藤陽子の功績がすこぶる大きいと思う。

長南の研究が画期的であることは間違いないようで、今後の研究の原典を提供したわけだが、それでもまだ講談を匂わせて、「児玉が居れば」をどうも否定しきれていない。
陸軍はきわめて誇大宣伝な団体であって、「天才」「神様」などのお囃子はプロレスラーのキャッチコピー程度の意味しかない。ついこないだまで財務省でも「10年にひとり」が1乃至2年の事務次官誕生のたびに言われたものだ。

反対に謂うと、「陸軍の暴走」が本当に暴走だったかも怪しく、確かに、海外の展開はそういう点から批判されても仕方がないが、国内事情については、「明治憲法の欠陥」が短絡に過ぎないと思うのは、現在においても、内閣府を見ると、似たような行政形態がないとは言えないからだ。

むしろ、枢要なのはロジックで、国際法が重要な役割を果たしただろうと思う。

知っているだろうか。
明治44年(1911年)は永田が陸軍大学を卒業した年でありまた、美濃部と立、この帝大のライバルが国際法の論争を開始した年でもあったのだ。

陸軍大学校卒業生一覧 - Wikipedia

m-repo.lib.meiji.ac.jp


このとき、美濃部は「不完全」な二元論の、立は「完全」な二元論の立場で、「領土」の意味を巡って議論した。
美濃部が相変わらず素朴実在主義者であり、立が抽象的実在主義者であり、立が法学理論の正統として説得的なのがそれぞれの特徴を表しているだろう(法はもっとも基準的な日数計算ひとつとっても抽象的であることを免れない)※。
※素朴なイメージとしては、某テレビ番組の、(あくまで番組上のキャラクターとしての)丸山弁護士と北村弁護士を思い出すとわかりやすいと思う。美濃部はまったく「丸山的」なのだ
これは本質的には、海外領土が(物権上の)「財」であるかどうかを争ったものであり、こうして陸軍内の様相が、「大日本主義」と「小日本主義」の争いに過ぎなかったことがわかる。すなわち、明治44年以降に、新井白石が心を砕いた「金」と「人参」と、「領土」とが同じになったのだ。「領土」に「競争」と「流動性」が付与された瞬間でありまた、「国内」と「国際」の完全に独立した二元を構想することで、軍が国際法の主体である限り国内の制約からは解放された瞬間である。国内法と国際法の交差するのが国会ではなく政府であることが重要である。
国際法は「財」として領土と、「主権」の主体としての軍を生み出したのだ。
それは明治憲法の欠陥ではない。
敢えて言うなら国際法の欠陥である。

 

さて、3人の研究者の話に戻ると、川口の研究は、永田までしか遡っていないのが残念であり、長南の研究は児玉までしか下っていないのが、残念である。
また、軍にフォーカスしているのが残念であるが、そうすることで研究の実りが大きかったのであるから仕方がない。

つまり、何が言いたいか。児玉から永田の系列で在り、それに説得力を持たせるには、軍以外との関係も重要だろうということである。

そうすると、軍を系列化するには、軍主流と軍傍流の対立が連綿と続いてきたことと、それらと、議会史乃至政党史(裏面での内務省などの行政史)を照らし合わせる必要があると同時に、庶民の反応としての文芸誌と諸史上の各イベントがそれに彩を添えるだろうと思うのである。

👇はとりあえず適当である。

山縣 → 児玉 → 田中 → 宇垣 → 永田  

川上               ↑ 
大山 → 桂                                   ↑
月曜会  ↑           皇道派       ↑

 

政友会 西園寺   原        浜口

 

Amazon カスタマー
5つ星のうち2.0 「帝国陸軍の至宝」?今なら営業課長どまりの秀才か。
2019年4月10日に日本でレビュー済み

そうすると何が見えて来るか。
〇永田は「陸軍の至宝」だったか、「営業課長」だったか

結論を言うと、永田は、「大日本主義」と「小日本主義」を国際法二元論で統合した人物で、軍における「小日本主義」とは「全庁体制」と「全国体制」のことであるとき、「道路」「ブルドーザー」は軍が責任を以て準備することではなかったに過ぎない。
すなわち、軍が「兵站を軽視する」には成員リスクとシステムリスクの2つあって、「餓死」に関しては前者で、「」に関しては後者であり、少なくとも永田は「大日本主義者」として国外を見る限りに於いては、後者を「営業課長」なみに把握するだけで済んだのだ。
それが永田の「国家総力戦」であった。

統帥権」と言いだす人は、本当に行政を理解しているだろうか?
いまでも国際法は政府の専権事項である
そして、クラウゼヴィッツは軍事は外交であると喝破したのだ。