乃木希典と児玉源太郎と乃木静子

渡部政盛に着目するのは、彼がピエロ的な役割を果たしたからだ。

乃木と児玉をみたときに、彼らもまた時代性を背負っていて、一人乃木が「明治の」云々ってハナシではないと思う。

藩閥から軍閥へ、それらを架橋する学閥の時代にあって、それが一見文部省の管轄に見えて、内務省の動きが児玉の特筆される政治的役割で見えて来るからだ。
それは意外にも児玉のもう一つの改革として目指された陸軍幼年学校の廃止から補強されることであった。
「士族」「平民」(「華族」)とみなされた階層が、「近代セクター」「農業セクター」として顕現したのだ。地方にも広がる「近代セクター」からの再構成である。

上杉と美濃部の論争には「士族」の持つ抽象的実在論自然法に代表)と「平民」の持つ素朴実在論報徳思想に代表)の対立という側面があり、大正になると、少しづつ形作られてきた科学的実在論(自動教育論に代表)がそこへ割って入った格好である。抽象的実在論が「理解できないこと」(しかし啓蒙できること)から「危険を孕みかねないこと」(ゆえに忌避されるべきこと)への評価の転換を迫られていた
おそらくフランスの文物はそういう扱いだったのである。
その事情を知らずに、我こそは、と名乗りを上げたのは遅れてきた「近代セクター」に属する新しい市民である渡辺政盛だった。

もちろん、自然法が二度と顧みられなくなったわけではなく、人文学の洗礼を受けて、近代自然法として、(法学上の)グランドセオリーを提供し続けたのであるが、庶民の渡辺には関係がなく芸に留まった。そのような表現の厚みをもったのが、大正デモクラシーであった。

渡部自身が革命を起こすことはなかったが、その振舞が社会の様相を伝えたことに疑いはない。彼が滑稽だったのではない。彼が絶妙に社会を映し出したのだ。
それはリアルなイデオロギーという、危険処理をしない不発弾のような素朴な人間観、すなわち素朴な、、、抽象的実在という、素朴実在論なのか抽象的実在論なのか、よくわからないものなのだが、平然と言い放つ。なかなか実情を知るエリートにできないわざだ。
エリートは様々な人間像を出したが、抽象に片足突っ込んでいるだけに優勢と見た渡部の語勢が増し、それがウケた。出すことに意義があるならば、これもまた、耽美である。

そういった趨勢の中、その時代の前にあって、一人消沈したのが乃木であり、一人咆哮したのが児玉であった。乃木の方がわずか長生きしたのだがその死は一人乃木のものではない。もちろん静子が巻き込まれたのだ、「明治」の持つ時代的課題の終わりであり、つかの間の大正とのコントラストで照らし出されるのは、乃木の諦めの方であって、児玉の不可能の方ではない
児玉の事業は児玉の死に際に動き出す。鉄道国有法は児玉の死ぬ3か月前に成立し、3か月後に最初の成果を得た。児玉はエリートらしいエリートであった(だから、昭和の軍閥化を押さえられるほどの「英雄」ではなく、むしろ準備した※)。
※ただし、長南先生(以下、敬称略)も言及されているが、「意図」があったかどうかは議論のあるところだ。ただそういうハナシは法学が得意で、故意(直接故意/未必の故意)、過失(認識ある過失/認識なき過失)であったり、中止、未遂であったり、届出意思、婚姻意思であったり、これが評価を含むことであるから、(評価の対照に先立って)評価論を対峙させてから議論してきた。

学閥の時代は、表の国会、裏の内務省の体制とともにあってなお、まだこなれていなかった。様々なファクターが丁々発止やれる余裕があったのだ。むしろ児玉は「余裕がない」と引き締めを急いだ「後近代化官僚」「前革新官僚」の一人であった。
乃木にあるのは一人の物語であり、児玉にあるのは国の物語である。
実は似たような逡巡をするのが特徴的な二人だが、人間観にうじうじ悩んであざとい大正人士に毛嫌いされたのは乃木の方であった(その点、渡部は悩まない。渡辺は乃木の死をどう思っただろう?)。

 

 社会科目が「戦略の学」に向かっている。 


こんな時代ですから。


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『中国は広い』これに尽きる。

つまり、アジア太平洋戦争は、「中国は広い」「太平洋は広い」。
これに尽きる。
そう考えると、イギリスの凄さってもう少しほめられてよいかもしれないなぁ。
世界中で同時に戦争することの意味。合理的な理由があったのだろうって観点があってよいと思う。


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もちろん文献考証が無意味化することはなく、著者のスタンスでもっとも感銘を受けたのは、「意思決定の問題」だと明言したことと、それを補足するため、方法的に「複数系統の規約」に関心をもったことだ。要は所謂「幾何的」な発想であって。
ともすれば「複数人」或いは「複数団体」の調整と考えるところを(例えば、陸軍と海軍の調整がつかなかったのだから、統合参謀本部が機能すれば、云々。)、それを超えたところに、長南先生ももちろん、最近の歴史学の成果があるのではないかと思う。
それを「大東亜戦争」と言ってしまうと、主体間的で、リスクを内に含んで、調整問題になるのではないかと思う。そうではなく、系間的で、リスクを外に出す考え方があってよいと思う。もちろん、そのときに、よく懸念されるような問題があるのは知っている。

実際に、先日、本屋に行って

 

を見た。狙いが面白くて、すごく膨らんでいきそうな内容を持っているけれど、どうしても、或る政治目的に沿って道徳(実は、制限された合理計算)で判断させる意図を隠さない。

他にも面白かったのは、

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以下の該当箇所を読んでいませんが、目次からパターンを読むと
明治中期乃至後期までに、男性医療宣教師から女性医療宣教師へ中心が移ってゆく流れがあって、それが「ミッション内部の対立」「日本人医師の多さ」「日本人からの圧力」で医療宣教中止に追い込まれたが、「日本人支援者」「アシスタントとしての日本人女性」「医療宣教がいまだ必要な場所」へ継続意思を見せる。1880年代(明治13年頃から10年程度)~1890年代(明治23年頃から10年程度)の看護婦養成、1920年代(大正9年頃から10年程度)~1930年代(昭和5年頃から10年程度)のミッション看護学校の充実へと続いてゆく。
まさに大正デモクラシー時の、中央の教育委員会決定にあった、慶応をはじめとする大学(昇格)承認とともにあったハナシであって。すなわち、「5大法律学校」「師範学校8大主張」とともに、ミッション看護学校高等専門学校化)もあったし、一方で、野口英世の伝記を見られるような、医師専門学校の大学化への意欲もあった(反対に見ると、「日本人医師の多さ」は野口も属したそういった制度に支えられていた。)。
「学閥の時代」はそういう時代だったんだねぇ。