丸山真男の神話

〈し・は〉〈み・も〉を〈然・は〉〈実・も〉に訂正

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要は、無自覚にいろいろな前提を置いてしまって。

①「仕方がない」と言ったときの仏教

②〈し・は〉と言ったときの丸山真男

 

「なる」「つぎ」「いきほひ」というけれど。

丸山流の、「述語」「関連付け」「評価」の適示である。

ただこれだと機序が見えてこない。
つまり、これだとフロギストンのようなことが説明できない(じゃあなんあんだとななって、エーテルかとなる。おそらくそうでもないだろう。つまり、構成的には何も説明できないのだ)。
「日本はそうだ」というならそうだが、すでに「然はある」と言っているではないか。
丸山真男は人文学者であっても、井上毅のようなロジシャンではなかったと思う(まだ志賀直哉の方がロジカルな発想だったと思う。丸山真男も「(戦後)神話」の中に生きていた)。
つまり、「ロジックの求め方」を「「ロジックの求め方」」としてすでに西洋哲学に依拠しているのであるから、西洋哲学の議論から出発するのが正統である。西洋哲学に動機を持ちながら、西洋哲学でないものを探すのだが、表現に拘るばかりでロジックがないのである。

〈実・も〉と対峙するのは述語である必要がなかったのだ。どうしても丸山の「なる」から「する」に同意してしまっていて、迂闊だった。

 

そうすると、なぜ仏教は近世を生み出したが、近代を生み出さなかったかと考える。

ルターは、「キリストはすでに我々〈の〉」奇貨として、回復(多寡)は満たされたので、動員(強弱)を求めた。
仏教の「発見」が「し〈が〉ない」から「仕方〈が〉ない」における〈が〉の発見だとしたら。

toyokeizai.net

仏教のことはほとんどわからないが、この〈が〉は〈指定〉のことであるから、それを否定することではじめて(肯定からではなく)説明されることは何だろう。
わからないが👆の説明によると、「諦」を通じた自然であるらしい。所謂色即是空、空即是色だろうか。ここらへんが「三位一体」と「三神一体」(ただし、ヒンドゥー教)違いだろうか。「三神一体」は一神の顕現する「創造」「維持」「破壊」の様相らしい。

三神一体 - Wikipedia

近江商人は「三神一体」ではなく「複式簿記」をおそらく中国から輸入して使っていたらしい。「複式」とは複数科目による記載である。これが一体となっている。ただ、別に東洋に独特の発想ではない。
複式簿記の画期は、(連立化による)規範の内部化である。これだとフロギストンが説明できる。つまり、簿記による「表解(公平)」と幾何による「図解(開閉)」である。「単式簿記でない」とは、単なる「表解(公平)」ではなく、(内部に)相互規約を構造化して持つということである※。
※このとき、「利子」などとして現れる再帰化を通して為されると、事実上のグランドセオリーとなる。
歴史的な現象では、信長の撰銭令の失敗、堂島の先物市場、荻原重秀 - Wikipedia(反対に新井白石 - Wikipedia)だ。


なるほど、そういうことらしい。
丸山は或る意味「単式簿記」的な人間像を構築しようとしていたらしい。

 

丸山がいくら「古層」と言ったところで、日本にも近世が訪れていた。
それは「古層」というより人間像であって、人間像も社会像が複式化されればそれなりの見栄えはする。フロギストン並みの科学的認識法は世界レベルで持っていたのだ(或る意味当たり前で、中国が独自に発見したのでなければ、中国経由でイタリアから複式簿記が輸入されたのだから。これは珍しいことでもなく、その後計算棒だって輸入された。便利なものが広がるのは現代の特権ではないのだ)。
そうすると反対にやはり、人間観、社会観、世界観が近代には必要なのではないだろうか。