整理するヒトと充実させるヒト

キリスト教ギリシャっぽいのはパウロのせいばかりではなくて、もともとイエスギリシャ寄りの地方で生まれたという、新潟は東北なのか北陸なのかというハナシがあったそうだ。

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憲法第24条を、aspect(voice)で論理的に解釈すべきところ、aspect(call)と文理的に解釈するからトートロジーであると述べ、トートロジーが意味をもつ経緯論であると述べたが、日本国憲法の持つ政治性が占領国憲法としての政治性に由来し、押し付け憲法の換骨奪胎化を(ロジカルにではなく)接辞的に政治上満足させたからであった。論理と文理の明確な違いが表れている。論理は、アリストテレス以来、隠れて見えないものである。アリストテレス自身の言葉を借りると、見えていることから、見えていないことの必然によって、『新しいこと』を見だすことであった。「こそ」自体に論理せいはない。実は、文理解釈が一見ロジカルなのは、このアリストテレスの言葉への誤解にあって、見えている「こそ」が、見えていないことの「判示」という必然によって、 『新しいこと』すなわち立法を見出すことにあったからである。

ソクラテス〈は〉ヒトである
ヒト〈は〉死ぬ
ソクラテス〈は〉死ぬ

とき、〈措定〉による必然は、ソクラテス→ヒト→死ぬゆえにソクラテス→死ぬ、が、ソクラテスであって人でない、ことがない、という、ソクラテスの可能性がヒトの可能〈態〉として表現される名辞に真骨頂があった。
これが ソクラテス(ヒト(死)))と表現されうるならば、それがvoiceであって、callとは限らない。
ソクラテスはわざわざ神官に「無知の知」を聞きに出向くのであって、目覚めて直接神の声を聴くのではない。

  こういうことだよ

  ああ、そうなんだ。知らなんだ。

  なんだ偉そうだな。

と双方で会話されることであった。ソクラテスの態度が悪いのは、係る〈態〉があったときの評価の低さである。例えば、死は訪れるものであって、導かれるものではないと言えるかもしれない。

 

プラトンは、アリストテレスの師であると同時に、思想上のライバルでもある。〈芽〉の比喩/〈鏡〉の比喩であるが、そのプラトンが、

 いうほど弁証法じゃねえよな

と腐される。
プラトンにあるのは「向かう」という哲学であり、和語ならば〈然・は〉哲学であって〈実・も〉哲学ではない。なぜそれが〈芽〉であり、なぜそれが〈鏡〉がなんだ和語だと見通しが良くなる。別の言い方なら、(プラトンは)バイラルであって、(アリストテレスのような)バイナリーではない(最近だと、この方がわかりやすいか)。
問題はソクラテスである。
いや、ソクラテスプラトンの言っていたことは噛み合っていたのか?
なぜそう言えるかというと、プラトンアリストテレスの言っていることが違うからである。〈非〉と〈反〉をいっしょくたにして〈偽〉というのは真っ当だろうか。

また世の中には整理するヒトと充実させるヒトの2種類が要るのである。
ソクラテスは、オッカムのように、整理しただけであったように見える。
オッカムが誤解されるのは「唯名論」と解釈論理で説明されるからで(もちろん原因はオッカム自身にあるが、発言が誤解を生むのは枚挙にいとまがない。)、「表現」「ロジック」「評価」を「すでに与えられている」事実性から整理し直すべきだと言ったに過ぎない。「唯」は「すでに」であって、「名」は「与えられた評価」であって、おそらく三位のうち特に精霊に関して、精霊論を以て父なる神/子なる神の位格の正当に言及しうることを言っている。論理的評価を以て為す論理的含包/論理的示唆の適示可能性だ。だから、オッカムは実は実在論を排除していない(からその後、人文学として花開く)。それをルターこそが「否定」を用いてひっくり返したのだ。ツヴィングリがそれこそ「評価」と喝破したときに、ルターが史上初の論理的な意味でパラドックスの発見者となった。パラドックスは〈包含〉〈値〉と〈示〉が再帰的にそろっていなければ論理的には成立しなかったのだ。〈の〉の発見による実質「共在」の否定(救済はすでに満たされている)と「共在」の構成(満たされた救済へ示される)を実質再帰的に行って、それが「評価」とレッテルを張られて成立したのである。要は、私という主体は主語化できたが、パンという目的語で躓いたのだが、パンも私も同じ被造物であった。私がパンで〈ない〉のは能動によって説明される。パン(聖体でありかつ聖体でない)でない、聖体に示される私はどう評価されるか。ときに聖体に示されときに聖体に示されない私ではなく、聖体に示されかつ聖体に示されない私なのは、パンがときに聖体でありときに聖体でないからではなく、聖体でありかつ聖体でないからである。迂闊にも私の評価が同時に言及された、、、、、のである。ここに可能と必然の関係も適示された。必然的な関係を措定しておいて、うっかり可能へ拓いてしまったのであった。
ソクラテスプラトンアリストテレスの時代はそこまでこなれていない。そこへ至るには、オッカムのほかにも、アンセルムスが要る。彼らは一貫して「すでに与えられる」事実性におけるvoiceの可能なさまに着目していた。
整理するヒトと、充実させるヒトに分かれただけであった。アリストテレスもまた整理するヒトで、ピュタゴラスを整理して見せた。

ソクラテスは何を言ったか。態が可能から可能へとより導くだろうといったのであって、そこにあるのは、「態」と「可能」と「より」である。「より」が為すのは可能態から可能性の取り出しで、その「為す」の正への積極性が「性」に働きかけることであったので、それが彼の弁証法であった。彼の弁証法と彼の神への態度は変わらない。それはまさに態度であって、態への肯定的評価である。可能態であるソクラテスの可能性を言葉が引き出すのだ。神官の言葉なら一言で良い。なにしろそれが神の言葉であるから疑う必要がない。神官でなければ「より」引き出すほかない。それが神の言葉でないからだ。しかし必要なのは神への態度である。その所為か人への態度がまるっきり不遜であった。ソクラテスが神とともにあった言えることは、ソクラテスは自己を可能態と(再帰的に)認識したと言えることである

そのエッセイで言っているのは、プラトンはそうではないということであるらしい。


それでは、アリストテレスは何をしたか。
ソクラテスaspect(voice)を、プラトンaspect(call)と主張したとしたら。
tokenである。プラトンcalltokenと考えてaspectにしたのだ。
voicecallされる表現をもつ。それがコピュラ(措定)であった。voiceが、callされてすなわち順序を以て、措定される。
ソクラテスの彼我の態ゆえの「より」を目指す積極的な対話が、プラトンを克服して、アリストテレスでは語られる(内容を持つ)二態ゆえの推移を目指す能動的な対照に昇華した。そうして、ソクラテスの「無知の知」は転換されて、コピュラの結合を通じて、「自明の推移」となった。A→B→Cは確かにA→Cであって、それ以外については何も言及しないで済む。知らないことは語られないのだ。
ピュタゴラスはもっと前のヒトであるが、確かに自然法は現在、ペアノの公理により、{0,{0}}と表現される。
ピュタゴラスはこれより大きい無限を排除し、自然数の系統を説明した。ソクラテスアリストテレスもこれに倣っている。

ちなみに、四色問題は、評価を与える論理問題と考えると、「嘘つきのパラドックを」suc(1)とみなせるならば、一面追加することが追加的な線を通じて点の近傍評価 min.suc(2) が線の近傍評価 suc(1) を可能的に含んだ4面max.suc(3)を構成し、これからどのように一面を追加しようとしても、そのために追加する1本の線の端がすでにある線の1本乃至2本に接続して或いは接続せずに点近傍を幾つ追加的に構成するかに過ぎないため、高々max.suc(3)に収まることを問うことであった。
これは線近傍の「左右」の対称が前後を以て評価されるとき「矛盾」(同時評価)と呼称されることの展開を示しており(要は、「順列」と「組み合わせ」の違い程度で在り、「順序」を持つとは或る「排除」しないことであるので、それに「矛盾」を当てても差し支えない。)、点近傍の対称が「開閉」を通じて「循環」するとき、線近傍の(同時)評価を含んで猶さらに「矛盾」を展開するためである。

オイラーは交線を増やすことで増える面の数を数えた。ここではどれだけ面の数を増やしても増える必要のない、2つの系の関係の話をした。