詞的(指示語)であること歌的(係助詞)であること

前回はようやくこの2か月の結論を出した。フランスの影響を受けた人間観/人間像の対立が、道徳と体制の関係を巡って耽美主義の可能性を反道徳的な風俗小説に狭めて、言語規範を逆手に取る理解への興味を失わせた。

それからは、昭和の耽美主義、三島由紀夫であったり美輪明宏であったり、或いは戦後の作家たちになって、それは『山月記』の「読解」とは直接関係がないようなのでやめておくが、最後に2人だけ取り上げたいと思う。

一人は「小説の神様志賀直哉であり、一人は「明治の精神」乃木希典である。

 

【フランス公用語論】

公用語を何にするかには長い議論があって、一斉に取り上げるのが難しいので、志賀直哉公用語論ーというか、まともな立論がなされていないので、フランス語志向のようなことだが、これが彼に冠された「小説の神様」とも関係があるのではないかと思っている。

志賀は、同時代の自然主義から派生した文学思潮の、しかし象徴主義へ向かわずに、写実主義へ向かって『もっとも詩に近い』と称賛されたのだが、芥川も語学の俊才で、小説を仮に絵画的/音楽的と二分するなら、芥川の絵画的な文体は個人的に好むところ、彼の画期はアスペクト表現にあったと思っているのだが、その芥川が志賀の写実性を詩に準える。これはもちろん正岡子規以来の伝統を踏まえていただろう。

志賀の『小僧の神様』は「小説の神様」の語源となった小説で、その文章の美しさから手本として書き写すことが流行ったらしいのだが、これはまるで絵画の習作のようなハナシである。それで文章が上手くなるだろうか?

代数を「時間の科学」と呼んだウィリアム・ローワン・ハミルトンは幾何を「空間の科学」と呼んだ。語学に才能を発揮した彼はロマン主義桂冠詩人と懇意にしたが、彼にしてみれば、詩はその統合であった。

それでも志賀の小説は『視線の流れ』と評されることはなく、「詩のよう」だったのである。海外の著名な小説家の異名をいちいち知らないが、紹介されるのはその技術の方で、『意識の流れ』なら聞いたことがある。

絵画的と言ったところで、絵画を同時的に全体を直観するなんてことはまずない。視線の流れに沿って全体像を結ぶか、全体の意味を結ぶかのいずれかである。
古典的な絵画はむしろ後者であって、透視図法のルネサンス的或いは近代的方法が画期的なのは、絵画を抽象的にした功績にある。反対に謂うと、具象の寄せ集めとしての絵画、すなわち、視線展開的な絵画は「絵画そのもの」からは排除された。

志賀の小説はそういった意味での抽象性で評価され絵画的なのだが、それは細部を等閑視する全体意識と裏腹である。
意外なことだが、志賀の小説に文法的誤りは珍しくない。にもかかわらず「手本」とし巷間尊ばれたのだが、それで文章が上手くなっただろうか?

そして、その文法の誤りは研究した者によると無自覚なものとは限らないそうである。つまり、文芸的手法としてフェイクを紛れさせたのだ。そのちょっとした「破壊行為」が彼の芸術の構成にある。
その一方で、同時期にあった『意識の流れ』は『意識の流れ』として評価されたのである。
現代人が江戸時代の日本画を見て違和感を抱くとすれば、焦点の「流れ」である。見て欲しい「流れ」に沿って焦点も「流れ」るのである。しかし、志賀の時間はストーリーとして回収され、言語それ自身がもつ規範順序への挑戦については、一瞥してそっと蓋がされる。
日本絵画は具象物の集まりであったため象徴効果が大きく、湯屋の女図の視線も喧々囂々されるが、足元を見ると、それがシンボリックな表現に過ぎず、過大な意味が危険であることを伺わせる。当時の絵師には少なくとも構図に関してはまだ「画好きな上手な中高生」くらいの技法しかなかったのが本当のところだろう。
要は、人間は人間を評価したがるのであるし、人間を表情から評価したがる癖が抜けにくいのである。相撲にしてもただ相手を崩せるわけではないのだ。ステップが枢要である。それを(自己の)生の視線ではなく絵画上の抽象表現である「視線」に照らしとってしまう。この(主客の)統合作用こそが抽象化の利益である。

👇「「見られる」(権力の)対象である「女」から見られる」と語られるとき
aspect(voice) のふりをした aspect(voicecall)) 。「男」にcallされる「女」

https://imediea.net/issues

そうした観点からの評価を志賀は望んでいただろうか?
彼のロジカルな技術が評価されることがあっただろうか。せっかく(わかりやすく)間違えているのに。
日本語には文法以外で抽象的なロジックはありえないのか?
志賀の小説が「絵画的」なのではなく、志賀の読者の抽象志向が「絵画的」でありすぎると思う次第である。
ならば、志賀が、日本語に飽き足らず、フランス語を志向したのは、作者の「志向」ではなく反対に読者の「志向」の(さらに)反対を突いたのではないだろうか。つまり、抽象志向が「絵画的」ではなく「言語的」であって欲しいとの願いを込めて。
表現はまた別のハナシである。
彼は彼の「視線の流れ」を構成するロジックがそれとして(『意識の流れ』と同等に)もっと評価されて欲しかったのだろうと思っているし、それを英語ではなく仏語に見たのが、耽美主義の胚胎した(デカダンな風俗化とは別に、モラリストとしての)もう一つの可能性を示唆していると思う
『意識の流れ』は間接話法と密接な関係がある。文法上の規範順序のハナシである。
そう考えると、『城崎にて』では、「夏草や 兵どもが夢の後」を背景にする耽美性が浮かび上がるのではないだろうか。
日本人は(専門学域以外では)なかなか「ロジシャン」になれないのであった※。
※それはそれでなかなか興味深そうである。かの蓑田も論理学者だったのだ。彼のテロリズムを称賛する気にまったくなれないが、彼のロジックには興味が惹かれる。
なぜなら、そもそもこの国のロジックの伝統はまったく無視されているからである。「日本語が論理的でない」とは語学が苦手な者たちの僻みであり、そもそもどの言語であれ論理的でないならば言語の要件を満たさないのでそれは「言語でない」と言っているに過ぎない。
ただそれをロジックとして理解する習慣が確かにない。これはキリスト教徒たちの伝統と比較すると瞭然である。たまに井上毅与謝野晶子のような俊才、天才が現れてもろくに評価されないのは残念なことである。
それでは、「日本語が論理的ではない」と腐している者たちは、井上や与謝野を評価できているのだろうか。おそらく、表現のハナシを持ち出すだろう。ロジックはその意味で表現ではなく、透視図法と同じで抽象化された機序である。
しかし、透視図法をそのまま「絵画」として見せるヴィンチ村のレオナルドは居ないのであって、「(救済される)人類」を無視してロジックを語るオッカム村のウィリアムは居ないのであった。

 👇「芽」の隠喩の読み替えだろうか。ロジックを内包して表現されたものが表現ではなくロジックを読み取られる。遠近法で作られた街からは「距離」が読み取られる。

ちなにみ、俊才が井上で、与謝野が天才である。井上は確かに珍しいのだが、それでも習ってきたから、というのがある。それは上杉の変節にも言える。エリートが「変節漢」であることは意外に重要な資質であるーなにしろ具体的に個別の事例に即して判断が求められるので、空想癖は求められていないのだ。ただ、そのため、「空想的」に見えることがあるが、それはそう「見える」だけのことがしばしばあるーので、戦後の各エリートの変節は実はそれほど非難に値しない。豹変したことこそ評価されてよい場合もある。その延長に耽美主義への偏見が根強くある。

CiNii 論文 -  詩的表現における指示詞の象徴性

 歌でもなく、詩でもなく。写実でもなく。

 

【心中】

今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは

— 森田必勝

森田必勝 - Wikipedia

私のような下品な者は、乃木の自死は、日露戦争PTSDだったろうと思っていて、「殉死」というのは、いかにも修正主義の乃木らしく、先延ばしになっただけのことだろうと思っている。乃木が武士然としているのは後付けの理解でで、確かにもともと武士だったが、そもそも武士が割腹自殺を喜んでするとは限らず、それについては終戦時の陸軍首脳部の往生際の悪さとも比べようとも思ったが、

むしろちょっと変わった人だったのではないかと思える節があって、こだわりを見せるのである。有名な児玉との逸話は、そんなことわかっていてもしないのが、おそらく乃木だったのではないかと思う。或る意味考えすぎる男で、面倒な質な割にシンプルな答えが好きなようだった。シンプルに考えるのではなくシンプルに「答えられる」のが好きなのである。

だから、明治天皇に「自分が死ぬまでは」と言われたらシンプルに「死ぬまで待つ」のであったが、「死んでから」の逡巡をシンプルに断つアンバランスが見える。自分ではやたらと逡巡することと言われたら逡巡をしないことのアンバランスである。
これが乃木の修正主義としての作戦指導と、『乃木教育』と呼ばれたホーリズムの正体ではないかと思う。乃木の「共生」は、乃木の逡巡の表現としてあったのだ。そのせいか、白樺派から批判されると森鴎外に相談するが、その後それに素直に従ったのであろうか。『前近代的』とか『封建的』とか言われたらしいが、ならば弟子と寝起きした夏目漱石にしても同じであるし、鈴木三重吉などははっきりと夏目の志士たらんとした態度に辟易としているのであって、まずは夏目漱石がやり玉にあがるべきだろう。夏目も批判されたかもしれないが、人格を揶揄されることがあっただろうか。
そもそも、武者小路実篤など、村を起こしてまで寝起きをともにし、鬱陶しい指導を繰り返してるのだ(しかも後に変節する)。

学習院出身者ゆえかとも思ったが、乃木以前の学習院長を見ても、旧態依然としている。菊池に目が行くが、彼にも毀誉褒貶があるらしい。 

小倉金之助の牒史叙述において,菊池は,代数と融 合していたフランス流の一一小倉の見たところ「進歩的なJ一一幾何の普及を阻んだ復古前な数学者として 描かれてきた.

Meiji Repository: 菊池大麓の数学教育構想

ただ、彼が当初初等教育に注力していたのはそうらしい。
菊池の経歴は「伝説的」とも言え、イギリスが数学の中心でなかったとはいえ、ケンブリッジ大学で並ぶところのない好成績を収めているのは、羨望の的となって不思議ではないだろう。
ただ、高木などは、イギリスで云々しても仕方がない、とイギリス行きを断り、ドイツに拘った。菊池の数学には四元数がそのまま出てくるのだが、高木などの言いたいところは、そういうところであった(ただ👆の著者は、そこからの菊池の野心を読み取る)。
そういった意味では高木は「お手軽」な方法を選んだ。さっさと学ぶべきことを学んだ方がよかったのである。もっと基本的なところで、教育方法が「和算習得的」であるかが横たわっている。和算では、問題を眼前に放り出して、呻吟した様を見て取っては、考える方向を都度類例を以て参照、、させるのであるーうかがい知るのがせいぜいで指導は明らかにされない。正解すれば次の問題を指図するだけである。なんとも教育方法としては不愛想なものであった。

乃木の写真を見ると、相好を崩していたようだ。ただ白樺派が嫌った教育方法としてやり玉に挙がるのは、なんとも「不愛想」なことであったらしい。なにしろ乃木自身がそれを受けて、それにどうも感謝しているのであるから仕方がない。
ただ、それを別途補うことを厭わない。苦痛であることを知ったうえで、苦痛を和らげる心機を養おうとするのだ。それは精神作用であるから、呼び水としての信頼を最重要視する。
このとき、その人間観は心身同期である。
なんだ、こう考えると、やたらと『エミール』っぽいのであるが、なぜか嫌われる。ならば公約数的で「ふりをしているだけ」とい思われたのか?
確かに逡巡だらけの乃木は、修正主義者であった。 

実は最近の研究では、だからこそ、乃木は作戦指導で評価される。
よい変節漢だったのだ。
寝起きをともにする効果がもっとも発揮されたのが、戦場だったようだ。
だからこそ、乃木はPTSDだったと思う。
あまりに被害が大きくて、それこそ身を削られる思いだったのではないか。要は、自己確信が、(実は明治天皇ではなくて)周囲との一体感から得られていたのではなかったか。それが失われたとき不安を覚えるからこそ、森鴎外への相談ではなかったか。乃木にとっては、日露戦争における兵の被害は、生きる気力を失わせたと思う。
アンバランスな乃木の資質こそが、同じ「明治人」である夏目漱石や菊池大麗以上に、乃木への憎悪を喚起したのではなかったか。
白樺派にとっては、強弱は在れ、自分たちの上の世代はすべからく「明治人」であったはずである。その代表にしては乃木への憎悪は不思議である。
武官としてであろうが、ドイツへ留学しているし、もともとはフランス式の軍隊で過ごしたのだ。望ましいかは知らないが、国際派であるし、学習院長として軍人出身は乃木だけではない。遊びが酷かったらしいが、上杉などはそれで尊敬すらされていたのだ。そもそも白樺派が性に対して潔癖なはずがない。

こうなると乃木が単なる「いじめられっ子」だったのではないかと心配になるが、どうなのだろう。児玉が褒められすぎな感じはある。確かに傑出していたが、児玉の伝説の一部は乃木のものであったらしい。

実はここらへんの実情は、美濃部と一木にも似て非なるものがある。美濃部は一木の走狗だったのではないかと言ったことがあるが、児玉は軍の本流に居て常に擁護されてきたのだ。その児玉に「食われた」感じがある。

月曜会 (日本陸軍) - Wikipedia

軍閥の争いと言えば、後年の統制派/皇道派が有名であるが、実はその前段に👆があった。これも藩閥への対抗が原因である。そしてそれに明治天皇が直接関わっているのが特徴であった。それを(山縣のもとにあって)収めたのが児玉である。
その児玉に揶揄われたのが乃木である。軽んじたわけではないらしい。つまり「性格」(カッコつき)の違いであったようだ。乃木には涙目が想像しやすいような何とも言えない受け身な傾向があるように思える。乃木はつい最近まで公式に(高級参謀が関係者を調査してまとめた評価を受けて、)作戦指導も批判されていた。代わりに児玉がより輝いていたのであった。

そしてついには、〇〇という学閥崩れまで、乃木の自死を、妻の心中にひっかけて揶揄するのであったが、〇〇が普段いい加減な言動を繰り返して公衆の評判をとってきたことを知っている。
だから、例えば「アジア太平洋戦争」という呼称に賛成する。政治的な発言の好餌にされないためにも、もっとよく調べられた方が良いのだ。よく調べるためにはよく調べるための概念が与えられた方が良いのだ。ここでは「中立」と「公平」の導きようが問われ直して、相互主義の主観性を排除した相対主義の客観性がこの概念には込められている(法学徒なら行為無価値と結果無価値に準えるとわかりやすいが、だからこそ、政治的危険の扱いようと心得るだろう)。

さて、

出でましてかへります日のなしときく けふの御幸に逢ふぞかなしき

乃木希典 - Wikipedia

乃木静子の辞世の句である。

武市半平太は腹を三文字に引いたらしい。こうなるともう異常人である。
傷が三か所あったのは、静子の方であったらしい。誰の仕業は知らない。
乃木や静子の態度を褒めたいわけではない。ただわからないものはわからない。
わからないことを言いだしたらきりがない。

武者小路実篤は、乃木の自刃は「人類的」でなく、「西洋人の本来の生命を呼び覚ます可能性」がない行為

乃木希典 - Wikipedia

要は、人間観の話をしている。武者小路はトルストイに傾倒していたらしいから

トルストイ運動 - Wikipedia

だろうかとも思うが武者小路の口からキリスト教が出てこない。
ならルソーじゃないかと思うが、どうも「自発性」と「理想」が結実しているのが「生命」らしいが、それをイデオロギーとフツウは言う。

この〈自由〉への誤解が、乃木への憎悪を勢いづかせただろうと思う。

そのころの日本が抱えていた矛盾がモダン社会のもつ教示性への忌避感とモダン社会のもつ暴力性への忌避感で、前者はポストキリスト教社会であるところキリスト教を持て余す感じで、後者は革命(的自由)社会であるところ男女差別を持て余す感じだ。前者を否定したくともその結果が後者なら困る感じで、それを「封建的」で片づけて社会主義へ逃げたいが。。。。といったところで、各々のキリスト教社会主義への距離感が決まる。
それにしても乃木は許せんといったところで、それが児玉ではないところが味噌だ。
山縣と児玉はよく心得ていて、一木、美濃部ら「平民」派と折り合うことも忘れない。
(「美濃部革命」の一つの成果は、四将軍と月曜会への明治天皇の示唆のようなことが二度と起こらなくなったことで、統帥権を不可侵な「権能(実質権利)」に拓くことなったことだろう。しかしこの時点ではまだ「原型」と謂える段階で明確な概念は与えられておらず、その後の議会政治が自覚的に与えることとなった。言論の府であることの皮肉であった)

 

要は、乃木ひとりがいかにも不器用なのだ。