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ここで問われたのはロジックであって、それが証明となっているのかがロジックとして保障されていないとならないことに気付けるかどうかだった。
証明 → ロジック (ロジックなきところに証明なし) |
(A→B のとき ¬(A∧¬B))
具体的には、最終行の数ラインが必須かどうかの判断であったのであって、それができるかどうかが分水嶺だった(その判断に迷う自分の課題ーロジックの正しい理解と習得)。
つまり、このような問題を解くときには、
〇ロジックによる戦略図
〇ロジックの証例としての回答
が求められている。すなわち、(A∧B)→(A∧B) (A→A)∧(B→B)
【(フィボナッチ数列を使った)性格占いの説明】
ma(n)=mf(n)+(a-f)×mf(n-2),m・=mod(・(),10),a=ma(1),f=mf=f(1)
このとき、f(2)=1,f(1)=1 より f(0)=0,f(-1)=1とする
n=1のとき、ma(1)=mf(1)+(a-f)×mf(-1)より、ma(1)-a=mf(1)-f=0
要は、ma(15)=mf(15)+(a-f)mf(13),mf(13)=0より、ma(15)=mf(15)=7
よって、どの自然数を選ぼうと15列目は7になる。
これはただの「術」。
そういえば、これ、小学校3年だったか4年だったかのころ聞いた。
板倉聖宣と伊藤和夫。ほとんど同時期に似たような主張をした二人。
それは依拠した思想が近縁だったことにも由来することは述べた。
すなわち、ヘーゲルとスピノザ。
ただ、ヘーゲルの弁証法がクーンのパラダイム論を排除できると考えるのは板倉の誤りだろう。クーンのパラダイム論はある種の「非決定論(的決定論)」(確率的生起論)を含んでヘーゲルを含意する。つまり、板倉の言うような目的に縛られない。目的に縛られるのは行為であって、結果ではない。それは「ないことの証明」だから、直接言及できないだけであって。つまり、科学もどこまで行っても、社会技術に過ぎないのだった(ヒトがいなくても科学は成立するかー日本人にはなじみが少ないかもしれないが、欧米人なら、科学そのものという不可知な何かを想定する。すなわち、「科学そのもの」が設定できれば十分であって科学認識乃至科学行為は実践でしかない。人間は「宇宙の真理に到達する」という偉大な事業に携わっているのではない。人間は人間の役にしか立たない。しかし、科学は「人間一般」に有用である)。つまり、係る誤解は、「科学そのもの」と「人間一般」という2つの抽象的概念を取り違える錯誤だったのだ。
そしてそれこそが「実在論争」として中世に繰り広げられた人類救済の神学であった。
神学論争は普遍である。
伊藤和夫が言ったことは、思想的には(おそらくスピノザの影響を受けた)内部規約による決定論で、その表現型として「矛盾」が現れるだろうとの主張が「構文主義」のアイデアではなかったかと想像する。
今風に言えば、👇
のようなことで、「ただの文法」でないのは、順序を設けているからである。前方から順に読み下したときに、次に何が来るか「幾何的規約」(エチカ;内部規約)から自ずと明らかになるとの主張で、これは形式論理の発想に近く、だから、統語的なのだろう(述語論理)。
興味深いのは、「国語」もまた「英語」と同時に生まれたのであって、英學理解の影響を受けて「規約主義(内部規範)」と「文化主義(外部規範)」の両方を孕むこととなったのだろう。
これが国民の「国語理解」との一般的乖離の原因である。国語自身は内部規約を採るが、国語で「国語」を教えるときには「文化」として教える表現上のねじれがある。このせいで、「『作者の気持ち』が作者にわかるか」が再帰的に問われることとなる。内部規約なので(そこで規約されない作者の「真意」を)わかる必要がないのだが、規約が表現に先だってあり、その規約の選択権が作者の独占事項なので「作者の気持ち」となる一方で、読者にとっては、「外にある『文化』」としてその問題文が受け止められてしまう。
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