Cogito ergo sumではなくEgo sum cogitans

『体験談とは何か』を、語義を明らかにして終わるのではなく、より説得的に敷衍することが求められているので、それができるのであれば、実際に(自分が)経験した事実に基づこうがそうでなかろうが問わない。

【問題構造】
メタ認知(背景の理解)   高校 × 入試/の/国語/の/問題
➁ベタ認知(問題文の理解)  体験 + 談/を/書け
☞熟語の理解 

① 「試験」では規範意識が求められていて、参照行為が具現されることでそれ(規範意識)が試される。即ち、行為規範であり、「書け」と指示されたときには、「書く」モデルが正しく(その「正しさ」を判断するのは。)参照されてそれに基づかなければならない。必ずしも倣うだけで終わることを意味しないが、発展させるにはより高度な能力が求められて一般的に難しい。
呼応(呼びかけ/応答のセット)である点で「会話」に類するが、以上の意味で「会話」(対等なゲームとしての、戦略的な反対応答を許す※)と異なり意図が揺るぐことなく措定されている。
会話分析 - Wikipedia


➁ 体験を書くことが談を書く(談ずる)ことで遂行されなければならない。体験を書くことが即ち(同時に)談を書く(談ずる)ことでなければならず、体験を書き、また(それとは別に)、談を書く(談ずる)のではない。体験とは体感(の客観化)を通して得られる認識の獲得で(「鳥肌が立つ」は「感動する」を説明する体験であるが、「感動する」自体は。)、
※物語効果

ーこの時、主張を含むか。
 積極性は求められても、文脈の受け入れに対してであって、批判(前提の対置)は求められていない。
☞なぜ、日本の高校生は、PISAリテラシー問題に戸惑うのか。

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

 

儀礼の及ぼす肯定的な効果の活用については、『農業体験』に関する問題ー農家で用意されたおにぎりを残した生徒が居た場合の対応を問う課題ーで取り上げられてよい。


デカルト(理性)の前にアンセルムス(自由意志)あり、デカルト(統合的機械表現)の後にニュートン(分析的機械表現)あり。ニュートングノーシス派で、グノーシスでは予定説を信奉する。

とりあえずは、下の通り、考えてみた。
後で修正するかもしれない。

アンセルムスにとって、《人類》は神の《救済》の目的因たる統合要素であり、そのとき《ヒト》は表現形式であって、《ヒト》は《人類》の分析要素ではない(《ヒト》は十分に《人類》を説明しないがゆえに《救済》の目的因ではない)。
デカルトにとって、《私》は目的因を以て表象(表現形式)たる統合要素を持つ外在(存在)であり、このときCogitoは表現形式である。力は表現形式で、存在の統合要素であるので、媒介(目的因)を持つ。
したがって、デカルトもアンセルムスも同様の『神の存在証明』を持つ。神は十分に大きい。
ニュートンにとって、力は、存在の分析要素であって、目的因を必要とせず十分である。世界がそのように『在る』ことを証明することが運命説を斥け予定説に適う『神の存在証明』である。力は十分に神秘的だ。
オイラーにとって、グラフは分析要素の(表現手法)であって、目的因を必要とせず十分である。グラフは単に無目的に成立する。

 

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人間は長い歴史の中でこんな当たり前のことしか思いつかない愚かな生き物だ
ー猫

吾輩は猫である