markovproperty.hatenadiary.com

 全文書き出して、名辞間の機能分析。
「する」と「している」:ポテンシャル 総合名辞(概念)/分析名辞(概念)

アンセルムスの成し遂げたこと:神(主語名辞)の量化
デカルトの成し遂げたこと:「飛ぶ」(述語名辞)の量化
なぜ、『飛んでいる矢は止まっている』というパラドックスは指摘できるのか。
矛盾:排除のされていいない状態:総合、ならば、「飛ぶ」には《飛ぶそのもの》が含まれている。《そのもの》を仮にポテンシャルと呼ぶ。ポテンシャルは何かしらを付加されて展開する表現力を持つ。《飛ぶそのもの》は「時間」或いは《時間そのもの》を付加されて、「止まっていない」ことを表現上展開するのである。前掲の有名な文は「止まっていない」かつ「止まっている」と云っているのである。

「する」=「している」なのに(ただし、文脈に依る)、
「止まる」≠「止まっている」のはなぜか。これが総合的な名辞か分析的な名辞かによる。それを前回は、一体/逐次と言った。さもなければ、否定性を強調する名辞(動詞は時間変化を伴うので、否定性は常に内在するが、この場合その《時間そのもの》を自己言及する(できる)ので、否定性のみを適示できるのかもしれない)。

ここまで考えて、わかった。あの問題を出した先生は、分析しているつもりで、あの先生自身の答えは3の「寂しい気持ち」だったんだな。
しかし、それはあまりに表層的な見方だと思う。
俺は、その機能を考えるときに。因果関係と見ずに条件との比較から、期間(期限)という内在する時間を発見できたけれど、「する」の「見た目」(コリオリの力!)は、いわば時間が閉じているように見えるので(考えてみて欲しい。迷路内を歩いていたら、目の前に壁があって壁の向こうをうかがい知ることはできないけれど、その上空は曇っている、自分の頭上は青空なのに。そのとき、壁の向こう全部が曇っていると言えるだろうか?「する」の見た目は、「する」以前に降り立った時に、そう「見える」のである。しかし、「する」は量を持つので、実は「する」上空だけが曇っていて、「する」の後はまた青空が広がっているのである。「する」と「している」はともに量を持つ(しかも、同じ内容に関して。)が、その説明の仕方が違う(或いは、量の大きさも違うかもしれないが、それがこの二つの名辞の要件ではない。)だけなのである。

 「する」と「している」の違いをコリオリの力(「見た目」)から考えよう

風はなぜ吹くのか、どこからやってくるのか (BERET SCIENCE)

風はなぜ吹くのか、どこからやってくるのか (BERET SCIENCE)

 

 

と思ったら、答えが出ているな。
そうか。失礼。
ひとつ、よい答えがあった。寂しさも含んでいる、ということ。
その通り。本来なら、「相」は、総合的だから、どちらかと言えるのかがもんだそもそも問題となる。ここで。「する」の「している」との違いが始めて浮き彫りに成るのと(「する」は時間を内在して、なお、意味上の取り扱いとして外部に閉じている。例えば、無限を我々はどのように扱っているか!=一体として扱う効用)、(本文中からそれを適示できるかと、)問題文の分析が必要になる。
クイズでよくあるでしょ。
この問題の肝は、時間の内在に着目して(その限りで)「する」=「している」としたうえで、「する」の一体化を用いて、「している」の統合性を排除する解釈上の操作にあるんだな。問題文がなぜ、「夢想したときの気持ち」を問わないか。
学校の問題って、そういうこと、すなわち、問題にならないことを無理くり問題にする(そのため矛盾する)ことがしばしばあるの。
算数の
問題でもよくあって、それもあって「まず国語」って言いだしているわけ(それがなくても、概念理解は避けられない、ってこともあるけれど)。おかしな問題。
ただ、この問題に関していえば、言語の持つそもそもの矛盾性を遠望できて、発展性があるから(矛盾の排除に関して、言語の機能性に着目できる。)、自分の理解では許容範囲かなって感じ(国語の問題でも別に変な問題はあるけれど、この問題は、なんとか意義が認められる)。
だから、この問題に関して、2割の人が「寂しい気持ち」と答えたらしいけれど。僕はそれを「間違い」といって(或る意味での)排除のしるしをつけるのはどうかと思っていて、それこそアクティブに意見交換することが大事だし、そもそもそう考えるのはすごく自然なことであるから(問題文から読み始めるので、或いは当然に、そう考え始めても、本来の語義から予定されていた総合性が機能的に結果として排除されるだけだからーそんなもん。電卓叩いたら、知らんけれど、答えが自然と出て来た、って話。)勝ち誇るようなことではないよね。だって、国語の研究なんかでも、いろんな意見はやっぱり出るんだから。「どれか」ではなくて「どうしてか」なんだよね、本当は。
でもそれは一般的には大学に入ってからとされていて、でもやっぱり「教養」(「考える」を考える教育)って義務教育から必要じゃない?ってことなんだよ。じゃないと、部活以外で学校って(外部効果により補助が必要だとしても、資産と制度に関して一体化して運用される現状は)必要ないんじゃない?ってこと(資産がよりアクティブで初めて利益を生む代替性を持つ。そこで必要とされた「不動産」はもはや観念的には分割し、分散して保有できるー外部性は技術によって低減した?)。