これじーさんに買ってやろうかな。

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自分は。
今日、2ついいことがあって。

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一つはこれで、あずきバー買ってきたよね。早速試している。
ただし、ゴールドが置いてなくって、非常に残念。


国語は、というか、国語も全然自信ないけれど(だから、なんでもいいからこうして、普段から「書く」練習をしている)。
だから、逆に、自分の勉強の為に。

これ、2の「おだやかな気持ち」だね。
先ず、アジェンダがねあってそれに気づけるか。
(本当は、=、という記号で説明されることではないけれど、わかりやすく)

 (夢想)した=(夢想)していた、なのか、(夢想)した≠(夢想)していた

ということ。誰かが良いことを言っていて、因果関係から説明していたんだよね。僕もまずそれを考えたのだけれど、「因果関係」(だけ)ではないな(そうやって"機会的"に説明されてすべての内容を言い表せるわけではないな)、と思ったわけ。
因果関係じゃなければなんだ、相関関係か、と統計やっている人なら思うところだけれど、僕のような法学部の出身なら、条件でなければ期限、と言えばわかるかな。
つまり、上のアジェンダの意味するところは、時間的経緯を含むか含まないか、ということ。僕は含むと思うわけ。だから、(この文脈上は)した=していた、を答え、だから、2(穏やかな気持ち)を選択します。時系列が

 (夢想前)○(夢想開始)●(夢想中)●(夢想終了)○(夢想後)

5つの名辞によって説明されるとき、「夢想した」も「夢想していた」も(夢想開始)含んで(夢想終了)までのすべての期間内の動作を謂うと思う。「した」は動作から、「していた」は「相」(状態)から説明される違いがあるにすぎず、「した」の場合、その時間経緯を一体として捉えるのに対し、「していた」は逐次的に捉えていると思う。でも、捉えている内容は同じだと思う(さらに、付言すると、条件で考えることの困難の一つは、(夢想後)の心情であって、もしかしたら、夢想している間だけは、寂しさから解放されていたのかもしれない、ということ)。
 本文を読んでみると、情景描写と心情描写が混とんとして叙述されているような印象も受けるかもしれないが(むしろ、情景を思うとき、客観的な内容を含んでいるか、客観的には説明されない空想的な、反実的な内容ーただし、情景としての内容ーを含んでいるかで、その空想が何かしらの情動の動きの反映かどうか考えても、確信にはいたらない。)、それでも、心情をよく表しているのは結局最後の段になると思う。おそろしさを感じていたかどうかは、わからない。神秘的な気持ちだったかもしれない。さびしさを感じていたのが、(母親も死んだ晩)「も」の意味するところで、母親の死に際してなのか、それを含めて母親を思い出すときなのか、必ずしも母親に限らないのか、そこには明示されてはいないが、最終行に(親しいひと)「たち」とあるので、母親に限らないのだろう。結局、夢想「した」内容は、実際に見えているのが、裏の水路だけなので、この水路が「運河に集まり荒川に流れ、やがて海にでて、さらにその先の世界のどこかへ向かうこと」の情景と「小舟がついて」情景という、現実には見えていないことの心の中での情景を思い抱いて「夢想」と読んで(だから、『夢想した』を本文中の別のことで言い換えると、最終段の直前『想像した』であり)、『その夢想』に或る心情が付随して、それが最終段に記述されている、ということ。

ま、そういうことじゃ、ないんかね。

で、ちょっと気になったのが、本文中に『穏やかな気持ち』が明言されていない、という指摘で、だから「読解」なんじゃないのかな、違う?