科学的イメージの誤りー分子、スピン

概念は隣接規範を必ず持つか

ニセ科学は科学に擬態して、人々の科学概念についての誤解を利用する - 忘却からの帰還

ここでの間違いは、「科学者は理解の上では間違えない」としていることである。
分子に関するアインシュタインの貢献や、スピンに説明などを見ると、科学者自身が間違えることを教えてくれる(別の言い方をすると、科学者自身は頻繁にー一般的にと言っていいかもしれないほどにー認識能力の上限があって間違えるのだが、数式自体は間違えない、というだけのことであるから、数式の選択を間違えなければ、個別の数式を読み上げることに間違いは少ない、というだけのことである)。
科学者/非科学者という「線引き」がすでに間違っているのであり、科学的な理解ではなく、すでにして、似非科学的な認識であることにこの論者自身が気づいておらず、すなわち、直観に反する理解は左程に難しことの証左となっている。
「線引き」でなければ何か。「指標」である、ただし、その「指標」の取り方が正しいのか再考が促される※。
『指標は、おおまかな比較に用いられる。』(数量の比較 - Wikipedia
では何の指標か。「キャズム」の指標である。科学者の多くは、「アーリーアダプター」にすぎず、ここで「非科学者」の陥る誤りとして指摘されることの多くからほとんどすべてがこの層に当てはまるのではないか、と疑われる。

情報システム用語事典:キャズム(きゃずむ) - ITmedia エンタープライズ


※科学について言えば、その多様な性質のいちいちを数式の持つ制限性で確認するだけ(すなわち、科学は説明規範に過ぎない)のことであって、("いちいち"の"規範"に過ぎないのに)統一的な概念自体、本当に必要なのだろうか、と思わないではない("いちいち"から"全体"を導くのは、帰納的な誤謬ではないのか、少なくとも、産みやすいのではないのか、また、それは"規範"故、"規範性"への依存であり、カテゴリーミスではないのか)。概念とは常に演繹的だから、どうしても規範的になるのは、規範論理は可能論理の裏返しだからであるー科学が規範と無縁と考えるのはそもそもの誤りで、科学とは、十分に制限された規範であり、そのような技術に過ぎない。すなわち、言葉そのものであり、よく知られたように、そもそもパラドキシカルである。

人間という認識機械の特徴である、と言うのは、社会構成において非常に有効であったとともに、非常に特殊であって、そのコストも大きいと、素直に理解すればいいだけだと思う。すでにして、「隣接規範的」な言説なのであり、誤謬を含んでいる。
この著者自身が述べている通り、よくある話で、例えば「水という危険な物質」における揶揄も(一時期、非科学的な理解をからかう常套句となって、「意識の高い人たち」が好んで引用していた。)、実はそこに規範的な誤謬を含んで留保が必要である。人間は機械の性質上、循環でしか物事を捉えられないと受け止め、どこかにパラドックスが潜んでいることに慎重であってよいだけのことである。我々が「十分、理解した」と思ったときに、少なからず、循環を別の循環に置き換えただけのことがあるが、そぼことは実は無駄ばかりともいえないのである。

 

 
まとめる。
科学者がその理解を間違えない、というのは、(イメージに関わらず)言語に代表されるシンボル操作の持つ原理的なパラドクスのために誤りで、その頻度については、我々非科学者と遜色はないが(科学者だって、数式だけを扱っているわけではない。自然言語をしばしば用いる。)、その質を考えると、彼らはそのパラドクスを適切に(!ここで気づかなければならない!これが多分に社会的なタームであることを!ムラを形成するのは、言語を用いる社会文化的な意味があって、「中心」から「周縁」に向かうこととして理解されるのである)利用してうまくアブダクション(論理の飛躍)を構成し(神話構造を用いるために、科学者は、この帰納的な誤謬を主観的には認めないだけの、精神的なテクニックを持つ。)より一般的な利益を導くことができるので、我々のようなつまらない間違いと同じにするのは損である。我々非科学者の間違いのつまらなさは、嘘のもたらす負の効用と同じで情報野を小さくするだけで、不利益が大きいことである。