Nihil admirari(nil admirari ) ニヒル 

漱石は日本のホワイトヘッドになぜなり得なかったか。

 

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 これはレトリックであって、∃命題の∀命題化に過ぎないけれども、「客観」との関わりで、文学乃至レトリック或いは比喩ではそれが許される(共同主観)。
つまり、偶々見かけた猫が黒かった経験から、すべての猫は黒いと結論づけることは帰納的な誤謬に過ぎないが、抽象観念は内包化可能なので、上の意味での客観を得られる。
(イケア文でおなじみ)イメージ生成文法で記述すると、
P[黒い光[人生]],Q[人生[黒い光]]

"敢えて"説明するために(無理やり)量化子を添付すると
P'[∃経験[∃人(生)]],Q'[∀人(生)[∃経験]]

量化子で記述する、∃y∀x(x>y)が不可能(例えば、再帰的不可能、斉一的不可能※)でも、∀y∃x(x>y)は可能である。
自然の斉一性 - Wikipedia帰納(枚挙的帰納法) - Wikipedia

しかし、ここで漱石が言っているのは、量的な話ではなく質的な話で、感慨に訴えかけて無理のない「客観性」(共同主観)の話なのでなおさらのこと、これが可能である。

カティリナ弾劾、全演説対訳版
ΣΤΟΙΧΕΙΑ 『カティリーナ弾劾演説』 — 第1演説
或いは、漱石なら、『ハムレット』か。「ハムレット」の名言 to be or not to be の名訳・迷訳・名解釈あれこれ - NAVER まとめ

夏目漱石 永日小品(クレイグ先生)

 

『 漱石は力量においては、中学の3年間だけで英検一級程度の語学力に上昇したという非常な秀才であったらしいが、英国留学においてはコミニケーションがうまくいかず苦悩したあげく、発狂のうわさが帰国の留学生から伝えられるほどだったと云われていた。《中略》しかし、それにしても、本書をとりあえず見てほしいところだが、「文学的内容の形式は「F+f」なることを要す」に始まり、容赦なく文学をこの式でズタズタにしていき、文学を数量的関係にみたてたり、分類してゆく。』
(シャムネコ37 ★★★★☆読み始めて、それなりに面白いと感じる。 2008年2月16日/文学論〈上〉カスタマーレビューより(抜粋))
文学論〈上〉 (岩波文庫)

文学論〈上〉 (岩波文庫)

 
文学論 (下) (岩波文庫)

文学論 (下) (岩波文庫)

 
文学評論〈上〉 (岩波文庫)

文学評論〈上〉 (岩波文庫)

 
文学評論 下 (岩波文庫)

文学評論 下 (岩波文庫)

 

 
漱石は「物語論」と「分析哲学」の両方が視野に入っていたのではなかろうか。漱石の云う「科学」は「分析哲学」のことだよ、知らんけれど。
ゲーデルによる神の存在証明 : 関本洋司のブログ
『断言することのできる最大の成果は、数学を単なる構文的規約とそれらの帰結から成るとみなす唯名論的見解を反証したことである』(『数学的基礎論における幾つかの基本定理とその帰結』)ーゲーデルの数学実在論 


逆に言うと、「実用的な文章」とは、係るレトリックを排して共通の理解に至る機械的運用を施した文章、即ち、受け取る側に任せて外延を同定できない主観を排した客観を求め、実現した文章ということにでもなろうか。
簡単に言うと「()付きで語るな(知らんがな)」ということですが。
ちなみに、
『科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ』(エルンスト・マッハ - Wikipedia

1879年 フレーゲ『概念記法』
1886年 マッハ『感覚の分析』
1900年 漱石英国留学
1910年 ホワイトヘッドラッセル『プリンキピアマテマティカ
1923年 シュリック「マッハ協会」

 

過程と実在〈1〉コスモロジーへの試論

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ホワイトヘッド著作集 第10巻 過程と実在 (上)

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 ホワイトヘッドからジョイスへ 

フィネガンズ・ウェイク 1 (河出文庫)

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ジョイスと言えば、龍之介だったろうか。

 

芥川龍之介とジェイムズ・ジョイス/鈴木暁世.pdf