漱石は、この「という」のテクニックを自覚的かどうか、わからないが他でも使っている。「もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。」(こころ)。これも「まるで黒い光のような、取り返しがつかない気持ち」の比喩だ。
— yhkondo (@yhkondo) 23 november 2019
絶対比喩、、、とでも言えばよいのでしょうか。
— 小池陽慈 (@koike_youji) 23 november 2019
直喩の逆転は、本来"たとえ"に過ぎなかったものを本質化する…〈認識の根源的否定であり、かつ創造でもあるもの〉と感じられました。
とりわけ先生がご教示くださった『こころ』の「黒い光」は、ゾッとするような凄まじい表現だと…!
震えました。
興味深くやりとりを拝見しておりました。どこでどのタイミングでどのように取り扱うか、現状では難しいですね。ちなみに、(この8月にツイートした内容ですが)「という」に関し、私は本務校の高3生対象、国公立大学志望者に向けた英作文の夏季講習で添付画像のような資料を用いて説きました。 pic.twitter.com/FU0dSiZo5e
— Early Bird (@41isyoichi) 22 november 2019
markovproperty.hatenadiary.com
これはレトリックであって、∃命題の∀命題化に過ぎないけれども、「客観」との関わりで、文学乃至レトリック或いは比喩ではそれが許される(共同主観)。
つまり、偶々見かけた猫が黒かった経験から、すべての猫は黒いと結論づけることは帰納的な誤謬に過ぎないが、抽象観念は内包化可能なので、上の意味での客観を得られる。
(イケア文でおなじみ)イメージ生成文法で記述すると、
P[黒い光[人生]],Q[人生[黒い光]]
"敢えて"説明するために(無理やり)量化子を添付すると
P'[∃経験[∃人(生)]],Q'[∀人(生)[∃経験]]
量化子で記述する、∃y∀x(x>y)が不可能(例えば、再帰的不可能、斉一的不可能※)でも、∀y∃x(x>y)は可能である。
※自然の斉一性 - Wikipedia,帰納(枚挙的帰納法) - Wikipedia
しかし、ここで漱石が言っているのは、量的な話ではなく質的な話で、感慨に訴えかけて無理のない「客観性」(共同主観)の話なのでなおさらのこと、これが可能である。
カティリナ弾劾、全演説対訳版
ΣΤΟΙΧΕΙΑ 『カティリーナ弾劾演説』 — 第1演説
或いは、漱石なら、『ハムレット』か。「ハムレット」の名言 to be or not to be の名訳・迷訳・名解釈あれこれ - NAVER まとめ
夏目漱石 永日小品(クレイグ先生)
(シャムネコ37 ★★★★☆読み始めて、それなりに面白いと感じる。 2008年2月16日/文学論〈上〉カスタマーレビューより(抜粋))
漱石は「物語論」と「分析哲学」の両方が視野に入っていたのではなかろうか。漱石の云う「科学」は「分析哲学」のことだよ、知らんけれど。
ゲーデルによる神の存在証明 : 関本洋司のブログ
『断言することのできる最大の成果は、数学を単なる構文的規約とそれらの帰結から成るとみなす唯名論的見解を反証したことである』(『数学的基礎論における幾つかの基本定理とその帰結』)ーゲーデルの数学実在論
逆に言うと、「実用的な文章」とは、係るレトリックを排して共通の理解に至る機械的運用を施した文章、即ち、受け取る側に任せて外延を同定できない主観を排した客観を求め、実現した文章ということにでもなろうか。
簡単に言うと「()付きで語るな(知らんがな)」ということですが。
ちなみに、
『科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ』(エルンスト・マッハ - Wikipedia)
1879年 フレーゲ『概念記法』
1886年 マッハ『感覚の分析』
1900年 漱石英国留学
1910年 ホワイトヘッド、ラッセル『プリンキピアマテマティカ』
1923年 シュリック「マッハ協会」
- 作者: ジェイムズ・ジョイス,柳瀬尚紀
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ジョイスと言えば、龍之介だったろうか。