今日の算数

採点ミスでしょうね。

要は、虫食い算の「考え方(の狙い)」として、すべての場合を試すということではないからか、それとも先生が疲れていて、単純に(先生の方が)正答を勘違いしていたかなのでしょう。

この問題の場合、上の段(かけられる数)×下の段(かける数)の筆算と考えた場合、下の段(かける数)は7と3で(試すまでもなく)「判断される」ということです。

授業でそういうことに触れられていないか聞いてみないとわからないかな。

「テストではないから」授業の理解度が試されたとするなら、そういうことが考えられるのではないでしょうか。

「昭和」では結構「あった」と思うけど、昔のことなので忘れた。
こういう「試行」タイプは嫌われやすかったように思う。
キャッチフレーズ的には、「試行」よりも「思考」というイメージ。


捉え方が世代で異なり興味深いですね。

「努力したこと」が評価されるべき※と自然に考える新しい世代と、特に算数に限って言えば、「努力」が恥ずかしいことと考えられた世代と。

本当ですよ。もたもたしていると、「何をやっているんだ」「わかっていない」と思われたんです。

「そんな指導はしていない」と言っても、先生のつぶやきひとつ、表情ひとつを子どもは見逃さないんだから。そういう「指導」があったと思う。

オイラーでも誰でも、大数学者だって、思いつく限りやってみるという試行を、そのキャリアにおいて行っています。恥ずかしいことでは決してないはずなのですが、そういう風潮が、厳然とありました。「合理性」に対する信奉みたいなものです(この下では、合理性=効率性であって、非効率的なことが価値が劣っているとされていたようです)。


ただ、「中学受験」なんかだと、「時間競争」の面もあって、いまだに自ずとそういう考え方を採っているみたいですね。

中学受験の問題なのかな、『60秒でわかる』という問題がyoutubeにあって、一応、答えは出せたのですが、60秒ではなかったなぁと思っています。「60秒」に拘って逆によくなかったということはあります。

(解き方だけ。設問では、1辺の大きさが5の正方形の1つの角だけに2:3の斜線が引かれていて三角形を為している。それをもう1つ作って張り合わせた。補助線を点線で引いた。60秒以上かかってしまうということは、ほかの回答があるかもしれないが、解答は見ていない。)

「予断を排す」ということは大事で、もたもた悩むくらいなら試すのは十分「あり」かなと思います。

面白い話があって、

星一はそのタイプだったようです。コロンビア大学へ進学していますが、「全部計算で解いて」驚かせたそうです(設問の意図から言うと、「公式に当てはめる」問題だったようです)。

星なら猛然とクレームを入れたでしょう。
そこにあるのは、フェアネスに対する考え方です。
「クレーム」がよいというよりも、「クレームを入れる権利は(付与されるものではなく)所与のものである」という考え方ではないかと思います(だから、逆に、突っぱねられる場合もあると思います。「解答を付す「我々」の考え方」も、権利に由来するからです。アメリカの学校がプライベートなのが鍵になると思います。日本の場合は「お上意識」が強いと言った方がよいでしょうか。だから、「事情を汲みいれる」「汲み入れていない」ことが問題視されやすいように感じます)。