図書館に予約した。

へーっと思って、

ラテン語翻訳 - 無料翻訳サイト

にかけてみたら、

 ポイントは、その部分がそこにあることです。

え?

って感じで、ほかの翻訳ソフトだと、

 部分がヌルの点です。

ラテン語 - 日本語 テキスト翻訳サイト | オンライン翻訳 | 無料辞書
Google 翻訳

 この点は意味がない。

ラテン語翻訳 - ラテン語翻訳日本語 - 私は翻訳を愛する

ラテン語翻訳が難しい、いろいろと事情があるらしい。

inbound-pro.com

第①翻訳が1票、第②翻訳が3票、第③翻訳が1票である。②が3票なのは、『私は翻訳を愛する』が2通りの候補を出したからである。②が第1候補で③が第2候補であった。

面白いのは、①は、

nulla(いいえ)、nulla est.(誰も居ない)、pars nulla est.(ゼロの一部)、cuius pars nulla est.(その部分はゼロです)、

punctum(点)、punctum est(ポイントはです)、

est, cuius pars nulla est.(それは、誰の部分がそこにあるのかです)

と、下の句だけだと、nullaが否定語もしくは「無」(もしくは「ゼロ」)を意味する語であるところ、上の句と接続すると、「そこ」に変わることだ。
意外に重要でないだろうか。他の翻訳ソフトでは、上の句まで訳せていないのだ。

交点が困るのである。
現代的な「ゼロ」ならまだよいとしても、「無」だと、交わっていないのだろうか?という疑問が浮かぶ。
いや最初に足立先生のツイートを見たときは、例の、『針の上に天使はどれだけ乗れるか』というスコラて哲学上の問題だと思ったのだー一般的な回答では天使は〈概念〉で、大きさを持たないので、無数に乗れる、となる。
これが「助かる」のは、概念は位置に関して複数で重なり合うことが可能である、ことを示唆するからだ。

  • 線は量を持つ
  • 点は線の部分で在り位置を示す

ことが、ラテン語からうかがえることになり、デカルトの「発案」が自然なものだったことになるのだ。

 デカルトは本当にギリシア語が読めたのか?

気になって検索してみた。

デカルトはこれを『数学集録』からそのまま引いて紹介しています。ただしギリシア語の原典からではなく、「すべての人がより容易に理解しうるように」という理由で、ラテン語訳から引用しました。

日々のつれづれ(オイラー研究所学術論叢) |デカルトの『幾何学』再読9 3線・4線の軌跡問題

えらい詳しい方がいらっしゃると思ったら、高瀬先生だったのである。
というわけで、さっそく、著作を購入しようと思ったが、本を置く場所がない。
図書館でまずは借りる予約を入れたのである。


デカルトを考えるには、今までのところ、【数学的デカルト】【人文学的デカルト】【論理学的デカルト】の意味論的デカルトしかみていなかったが、これに加え、〖絵画からのデカルト〗〖ラテン語からのデカルト〗或いは〖散文(バルザック)からのデカルト〗の意義論的デカルトが増えた。

【ブルネルスキの透視図法から三点・四点問題を経て円錐曲線へ】

パスカルとデカルト,山田弘明

この文学者の言っていることは、ほぼ意味不明である。
まとめ直すと、おそらくこうである。

デカルト パスカル
〈鏡〉の比喩 〈芽〉の比喩
エーテル 空気の柱(と虚空)説
一点透視(交叉) マルチ透視(交叉)
代数的 超越的
明証的(有限回数的) 神秘的(自動的)
実在論存在論的証明) キリストの神であることの擁護証言

1段目は、人間観であり、パスカルは所謂「流出論」に立つ※1
2段目は、宇宙観であり、パスカルニュートンに繋がる力を信じる
3段目は、世界観であり、デカルトは「光」の指向性をパスカルはその遍き様を信じる
4段目は、曲線観であり、パスカルニュートンに繋がるサイクロイド曲線を発見
5段目は、真理観であり、デカルトは媒介的、パスカルは直示的
6段目は、救済観であり、パスカルは経験的な(すでに在る)キリストの恩寵を強調※2
※1『葦』とは植物の(成長の比喩ではなく)「弱さ」であるが、人間の本質的不完全さと神の救いの補充的性格から、新プラトン主義の色彩が濃い
※2デカルトはカントによって「デカルト」にされたが、アンセルムスはデカルトによって「アンセルムス」にされたようだ。アンセルムスの仕事は、当時懸案だったすでに具体的に存在したキリストが神であることと、キリストが恩寵であることの擁護である。アンセルムスは単に「神の大きさ」を論じたのではない。そもそも「証明」ではなく「証言」である。

パスカルの定理 - Wikipedia

パスカルが証明を残さなかったのが味噌である。試行錯誤したということだ。
(3段目に関係)

要は、パスカルは、デカルトニュートンを繋いだのだ、ただし、ニュートンにはもう一人の天才、ウォリスが先行した。ニュートンパスカルの思想をみごとに表現したともいえる。
パスカルがうじうじしていたのは、彼が多くの示唆を残しつつ、デカルトを完全には超えきれなかったからだろう。


パスカルは、デカルトを『異教的』と言ったらしいが(原語を見ていないので、細かいニュアンスはわからないが、額面通りに受け取ると)要は、「そんなものはキリスト教ではない」と断言したのだ。これはかなり勇気の要ることだが、根拠のあることなのだろう。教会は何度も論争してきたからだ。つまり、決定された教義に照らして「間違っている」と言ったのだが、それが間違いである以上、信仰上受け入れられないと言っているのだ。

単に考え方の違い、それどころか、感じ方の違い、捉え方の個人的なスタイルの違いのように読めるのは感心しない。
教義上の問題であることは言わずもがなである。
私は「異端」程度に思ったが、パスカルははっきり「異教」と正しく指摘したのだ。

公会議 - Wikipedia
基本信条 - Wikipedia

デカルトが最初の「異教的」な人物だったろうか?

パウロアテネに滞在した際にエピクロス派やストア派の哲学者数人と論じ合っている[93]。 当時、哲学とキリスト教の教えを巧妙に混ぜた教えが多かったためか、それらの哲学を「むなしいだましごと」と批判した事もある[94]。

パウロ - Wikipedia

実は、私も、トクロメの批判する

ルター以来パウロユダヤ教からイエスによって解放されたとする見解が主流であったが、トロクメによると彼自身の意識ではユダヤの思想家であり、意識としてはユダヤ教内部の論争に関わっていたつもりであったとされる[96]。またトロクメは歴史家たちがパウロを「キリスト教創始者」と考える傾向にあることを批判し、この考えがイエスを「ユダヤ教の改革者」という誤った位置づけに貶めるものだという。トロクメはパウロの思想がアウグスティヌス以前は正確に理解されているとは必ずしも言えないこと、中世の神学者たちも彼をあまり重視していないことを挙げ、パウロキリスト教における中心的な地位を与えたのはルネサンス宗教改革であると述べている[97]。

赤字強調は引用者

トクロメとは、Étienne Trocmé - Wikipedia

キリスト教創始者」説を採って、ずいぶん昔に読んだ山本七平に倣うところだったが、それはすでに批判されていたらしい。山本はパウロギリシア語話者でであったことから、ギリシア語で説く教義が、最初から(ユダヤ教徒から見て)「異教的」だったと指摘したのだ(これがパウロこそ「キリスト教創始者」であることを帰結する)。

山本には「トンデモ」批判が、特に、協会関係者から厳しく、逐語的に詳細になされたが、山本は『歴史家』から学んだのだろうか?わからない。ただ一方で、山本も、イエスパウロユダヤ教徒であることへの指摘を、(ここで読める限りの)トクロメと同様にしている。
さて、トクロメの主張の行き着く先はどうなるか。
パスカルとオッカムとルターである。