前期近代の影響を受けるゆえに、もうおかしなことしかできない分野というのがあって、一部の文学、一部の法学、一部の歴史学クオリティーペーパー(一部の新聞)がそれにあたる。

地裁判決は、事実上の立法の疑いがあって、極めて不適切な判決で「善い判決だから、合憲」というのであれば※、近代法の理念にも、憲法にも反する考えである。

自衛隊が合憲であるのは、具体的政策まで憲法に記載することがナンセンスだからとおうことが背景にあって、具体的には、そのナンセンスを無視すれば、立憲上の要請から自衛権を排除できないことが、論理上明白だからなのだが、この論理上の具体性(立憲性乃至立憲制)と政策的具体性(個別政策的立法)の違いが理解されず、「文理主義」という終戦時の「占領政策上の命令としての疑似的な「憲法」を換骨奪胎するノード(結び目※)としてのクリシェ乃至抜け道」を、さも「近代法の原則」に照らすが如き装いを施したある種の欺瞞がまかり通っている学会の状況である。まるで伝統芸になっていて、もはや近世の古文辞学或るいは有職居士の様相であり、近代制度として、それ自体極めて不適切である。

※すなわち、理路を「こんがらがらせる」文脈上の仕組み

要は、前期近代期以降発展したことは、近現代的な科学であって、一部の法学は、確率と科学(医学を含む。)との相性が極めて悪いのである。

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だから、「ハンセン病訴訟」などのような、古い考え方に依拠するがゆえに誤った社会的判断については、前期近代の「人間ガラガラポン」―つまり、障害者だろうと健常者だろうと、法律上は個性のないのっぺりとした人格しか見ない司法は、或る意味で暴力的にそれなりに意義を見出すのだが(つまり、この場合、政府に対する「こん棒」となる。)、これは現代科学の進展を待つしかないのである。

この度の原告団の団長は、こういうヒトで会って、25年バケツに水を汲んで温度を測り続けたというが、そんなことは、大した話ではなくて、年寄りは毎日、ニュース等で気温をチェックしています。年寄りのやることに、10年も20年もなく、ただの「日常」だから、この人は大して年寄りでもないのに、そういう「日常」を持ったことが「ふつうじゃない」のであって、そういう観点から、むしろ、「ふつう」と「ふつうじゃない」の狭間の人であることが疑わしいわけです。

そんな人を司法が救うことができないことが問題であって、社会が鼻面を引き釣り回されることとなる。

ハッキリ言えば、ASDの疑いがある。
もちろん、それは、医師にしか判断を下せない。
だけれども、司法を「自己充足の目的」に利用しようとするとき司法が「政治的にそれにこたえる」のは、あまりに前近代的で、オカルト志向であるとしか言いようがない。

恥ずべき判断だ。
裁判長の処遇も考えるべきである。

例えば、ウィニー事件の京都府警を思い出すと、わかりやすい。
あれは、「新しい犯罪」だったために、判断のための概念的整備が追いついておらず、形式的類似性からそれ以上の判断については司法に委ねる目的で、或る意味で勇み足を犯した事例であるが(だから、批判も多いが、警察自身にはそれなりの根拠があった。そもそも起訴すべきかどうかの判断は検察の役割である)、これは警察、検察を通さずにいきなり裁判でそれをやったようなことである。
司法には荷が重く、民主的に決定するほかない事例である。
それが憲法意思である。

裁判所による政治的判断には

  1. 例えば科学的発展に伴う新しい事実の判断につき、外部規範を順次取り入れながら、裁判所内で調整を図る
  2. 例えば科学的発展に伴う新しい事実の判断につき、人格的救済を図りながら、裁判所内で調整を図る

今件は、裁判所がまさに「それ」と名指しした、2番の問題であり、「疑似医療」である。