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つまりは、藤澤清造の『根津権現裏』は、かかる社会に於ける事態を前にして、それを(方法的に)構成する個人の態度を、当事者間を差し回す約因を鍵として記述してゆく対話文学であるが、そこにある二重の(階層構造の)ロジックが主人公を問い詰める、と言うことができそうである。
これはそのまま書評となって違和感があるだろうか?
私はまだ十分には読んでいないのである。
これから、読む。
映画も「ネタばれ」してから観るのを信条としている。見逃さないためである。
ここで、藤澤清造に寄せられた批評の数々を吟味してみたい。
『ドストエフスキーの影響を受けた』
いや、ソクラテスでしょう
c.f.ハーヴァード大学におけるラングデルのケース・メソッド
こうなると、もはや(「モダン文学」と謂うより、もちろんその範疇であるが)「現代文学」に近づいて、水上勉や松本清張を思い出すのである。
「松本清張の出現で推理小説は社会性を持つようになったが、水上勉はなおその上に思想性を加えようとしている」
『東京新聞』1960年4月30日
「この作者の素質は、社会的なものより、人間の本質に関して、実存的な把握にむいているのではないか」
「前者(松本清張)がプロレタリア文学が昭和初年以来企てて果たさなかった資本主義の暗黒面の描出に成功し、後者(水上勉)が私の読んだところでは『雁の寺』の作風によって、私小説的なムード小説と推理小説の結びつきに成功すると、純文学は単独で存在し得るという根拠が薄弱に見えてくるのも必然なことなのである」
伊藤整『純』文学は存在し得るか」(『群像』1961年11月号)
「彼自身の想像力の運動のうねりが激しく、ときには、放埓にとめどなく流れる。」「そこには、まさしくロマネスクとよぶにふさわしい世界がく
りひろげられるのである。」
篠田和士「解説」(『野の墓標』集英社文庫 1978年)
これはすべて水上勉への賞賛で、
「週刊誌も月刊誌もどこでも殺人小説を歓迎していた。ところが当人の私は『雁の寺』を書いて、毎晩うなされるようになった。人殺しのことばかり考えてそれを書きつづけてくたくたになる日常は、異常であった」
これは水上の感想である(すべて、水上勉 - Wikipedia)
藤澤清造のことではない。
要は、ここに在るのは、そこはかとないアメリカへの素っ気なさである。
「5大法律学校」「師範学校8大主張」とともに、ミッション看護学校(高等専門学校化)化と医師専門学校の大学化へ意欲を燃やしていた時代に在って、アメリカの果たした貢献もあったはずである。
戦争までは「蜜月」を謳歌していた事実がある。
戦後のみならず、戦前もアメリカの支援を大分受けて社会的基礎を作ってきたはずだが、「二の次」に置かれているような気がしてならない。
考えてみると、高木貞治が自己に課された「クロネッカーの青春の夢」に(少なくとも、部分的に)肯定的な解答を与え、師匠のヒルベルトへ提出したのが、1920年(大正9年)である(別に高木はそれにもともと興味があったわけではない。有無を言わさず師匠から押し付けられた格好である)。
これは例示で、各方面で、世界レベルで物事が考えられるようにはなっていたのだ。
現在からみて違和感が多少あっても、世界的に違和感がないか少ない、と考える方が自然である。
なぜ、文学だけには奇妙なことが起きていた、と言えるだろうか。
横光利一はラッセルに30年遅れた。ラッセルのパラドックスと同じことをツェルメロがラッセルの1年前に発見していてヒルベルトたちとゲッティンゲン大学の内内で共有していた。高木貞治がゲッティンゲン大学から帰国したのは、(さらに)その前年の1901年(明治34年)のことであった。
この頃、文学界は何をしていたかというと、