「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ⑫

世の中には、政治の問題と倫理の問題を分けられない人が居る。

でも主観的には、分けているのである。

これが何で大切かというと、「救済」に途が拓かれるべきか、「必罰」に途が拓かれるべきかの違いを生むからである。

罰するときには「可罰」でなければならない。

 

だから、方法的な「論理国語」が必要となる。
「救済」でかつ「可罰」を導かなければならない。
それがわかっているかどうかは、言葉遣いに表れる。

これが高校生に必要だと考えられるとすれば、

  1. キャリア教育上は、「騙されるな」(実証的判断)
  2. 主権者教育上は、「能き選択を」(理想的判断)

ということだね。

 

markovproperty.hatenadiary.com

ということで、

徳田秋声は、物語上の制度内逸脱で、『フィロソフィ』(心理学による「主体、、」の措定)がないと批判を受け、しかし、そういった夏目漱石も概念の陥穽を乗り越えることができなかった。
その弟子、芥川龍之介は、より実証性を追求しようと画策したが、望ましい『フィロソフィ』(心理学による「個人、、」の措定)を見つけられず、達成できなかった。

藤澤清造は、幸運にも縁に恵まれて、それを発見できたかもしれないが、あまりに早すぎて評価されなかった(むしろ、伝統的な批評によって、大陸文学の影響を誤解された)。
横光利一はカントにいっとき拘泥したが、後に概念の陥穽から逃れることができ、ちょうどよいころ合いに実証的(形式的)な方法を実践できたが、実際は、藤澤清造からインスパイアを受けたことを川端から仄めかされていて、戦後、三島由紀夫を発見したところを見ると本当に(藤澤清造と同じ)『フィロソフィ』を獲得したか怪しく(パリに初めて立った近代人という評価では、それを達成できていない。)、水上勉を発見するまでは生きられなかった。

こんなところだろう。

唯心論(ゆいしんろん、英: Spiritualism)とは、人間・社会において、心、もしくはその働きこそ至上の要因であるとする存在論における立場の一つ。その反対が、唯物論になる[1]。認識論上の立場の一つである観念論としばしば混同される。なお、仏教の唯識論と似ているが最終的な点で異なる(後述)。

唯心論 - Wikipedia

或る評者によると、水上勉は救済を説いているらしい。
ただ、水上勉になると、どうも唯心論に傾くようで、実際中国に旅しては唯物論に異議を唱えるのだが、これを水上勉の禅の経験から唯識論として批評する研究者がいて、救済論を導くとなると、それにどれほどの区別があるのかわからない。古代と違って、仏教は科学足りえないからだ(古来仏教は実証的で科学のような装いを見せていた。だから、唯論なのであって、これは「そう思う」ことではなく「そうである」ことである※)。
※実際、ややこしいこととなる。坊さんは「そうである」という(本音はともかく)口ぶりになるし、聞く方は括弧に入れて、「「そうである」と思う」ことを余儀なく、、、、される。通謀ということになる。

藤澤清造と故郷が近いせいか、文章上の意匠も似ているが、そうなると本質的に違ってくる。また、藤澤清造の時代の超越性の「異常ぶり」が際立つのである(戦後においてすら、理解されない)。
アメリカのこの異様な「遠さ」は何であろう。

 

水上勉立命館大学中退か。西園寺公望の秘書だった中川小十郎が作り、石原莞爾も関係した、あの。国際大学も有名な。

実践としてのリーガル・リアリズム ―ハーマン・オリファントの議論を手がかりに― 菊 地 諒

「リアリズム法学」と聞いてオリファントってなかなか出てこないような気もするけれど(アンチョコだと、だいたい、ホームズとか有名な3人で終わる。すごく重要な人物なのにね。)、立命館のセンスが光って、そういうところ好きなんよね。

 立命館大学は,西園寺公望の秘書を務めて京都帝大の創設にもかかわった中川小十郎(1866~1944)が,明治33(1900)年に創設した京都法政学校に始まります。

 同校は,門戸の狭い京都帝大を私学によって補佐し,高等専門教育をひろく開放しようという中川の構想をもとに,当初は夜学として始められ,また専任教授は置かずに京都帝大の法科大学教授が講師陣として迎えられました。

 やがて同校は京都法政専門学校,京都法政大学を経て,明治38(1905)年には西園寺公望から,彼が明治2(1869)年に開いた私塾立命館の名称を継ぐことを許され,大正2(1913)年に私立立命館大学と改称しました。

文化史25 京都の大学

中学の修学旅行で、立命館大学の学生さんに案内していただいたら、説明が上手で面白かった。すごいなぁ、と感心してばっかりだった。