文学作品では「論理」が学べないと考えているなら、それがまずおかしい。
— 🐈🦔鴻巣友季子(シルヴィア・プラス「ベル・ジャー」翻訳中) (@yukikonosu) December 9, 2021
文学で論理を学ぶことは無茶です。「扱う」ことはできます。
以下の3つを確認しなければなりません。
〇説得的と論理的とは同じであるとは限らない
〇論理と文法は異なる
〇論理と論理的文章は異なる
論理とは評価システムのことであり、論理的文章とは、文法表現を活用して
ただし、論理の求める評価規範と、文法の指向する規範が同じではないのが難点で、日本語の語彙を構造を与える語彙と表現を与える語彙に分ける時、論理は前者に関わることですが、文法は、そのような見方を与えることなく、両者にまたがっているでしょう。ですから、文法から入っても、焦点がぼやけ曖昧になって意味をなさないと思いますし(それ自体非論理的です。)、反対に、論理を意識して文法を教えるならば、そもそも評価規範とその表現のシステムについて理解があるのですから、それ自身を教えることができるはずです。
国語は「英語」の確立とともにありましたが、30年以上前の私たちのころの標準的な「英語」の授業では、長文読解のテキストを用いて、単元ごとに、文法を扱うことができました。
「英語」の文法はこなれていて、おそらく30弱のセクションに別れていたと思いますが、標準的なテキストを購入して、とりあえず一通り目を通すのに、毎日、1時間乃至数時間、1セクションずつ勉強しても、ひと月で終わる程度の分量です。それをたかだか1週間に数時間の割合で2年乃至3年かけて学ぶことになっていました。
「英語A」「英語B」「英語C」で習いましたが、「英語Ⅰ」「英語Ⅱ」「英語Ⅲ」もあり、今では👇になっているとのことです。
https://www.mext.go.jp/content/20200318-mxt_daigakuc02-000005103_5.pdf
論理と文法は異なりますが、要は「そういう話」であって、授業で取り上げられない話ではありませんが、生徒に文法のテキストが不要なわけではないでしょう。
問題は、今の生徒には、「読書感想文」を課すなら「読書感想文のフォーミュラ」を教えた方が良いということです(かつては、課題の主要な目的:答えでしたから、隠されていたことのはずです)。
先生方が反対しているのは、教師用の参考書が不足していること(何しろ、教師自身が教わったことがありません。つまり、今は、「過渡期」です)とは別に、大正新教育の失敗の数度目かの再演ー昭和の人格教育への になるのではないかと思います。「主体的」「自主的」「能動的」「科学的」と御託を並べても、合理的人格に依存して「わかる奴にはわかる」話にしかなりませんから、結局は、「好ましい人格教育」に堕し、大正新教育が意欲を燃やしたわりに内実挫折した「押しつけ教育」を脱しません(論理はそういった点では、構造理解は「押しつけ」、様相理解は「押しつけ」ませんので、分別ができています)。
つまり、論理にとって
図書館閉館案に議会紛糾 渋谷区 : ニュース : 東京23区 : 地域 : 読売新聞オンライン
— 文学通信 (@BungakuReport) December 9, 2021
【蔵書数は約11万点、座席数は133席で全10か所の区立図書館の中で2番目に広い。JR渋谷駅から徒歩10分の好立地】 https://t.co/4bYGezak2X
だから、👆のうようなニュースを👇から得られる評価で考えてみることはできる。
「現代の国語」で科学的、或いは、法学的な文章を扱うことの難しさは在る。
論理的に考えるというのは、専門的に考えることの基礎構造を与えているから、科学分野の文章を扱ってもよいが、一方で専門知識もおのずと要求されるから、(わからないわけでないにしろ)論理的=専門的と混同してしまうかもしれない。
それは文学の専門家でさえ、説得的と論理的、或いは、論理と論理的文章を分けて考えられないように。
この騒動、そもそもの原因は新学習指導要領の欠陥。「論理・実用」VS「文学」なる区分けがおかしかった。
— 阿部公彦 ABE Masahiko (@jumping5555) December 9, 2021
気が早いと思うかもしれませんが、次の学習指導要領での改善に向けた準備をお願いしたい。
国語だけじゃなくて、英語もね。 https://t.co/HHp61cwEkp
「実用的」とは、今の高校生が、彼らのおかれている「高度情報社会」を前提とした「消費社会」乃至「消費者主権社会」と向き合うときの道具(主義)のことを言っていますから、昔のように、「ドストエフスキーを読んでロシアを知る」ごとき教養主義の悠長さは求められていません※。おおむね、反対している人たちは、妙な「エリート主義」に拘っていると思います。
※それは「お笑い」極秘情報です。
与那覇さんの文章がおかしいのは、結局、こういった話で(フェミニストによる批評とフェミニズム批評が異なるのはまさに評価規範に関することで、目的を共有して猶、それぞれの識者が独自の評価基準で論じるかどうかでしょう)、その点、上の人たちも与那覇さんも大して違いがないのであった。
つまり、総じて、「論理」をなんとなく感じているだけで、正味それ自体を抽出して考えようとしたことがないのだろうと思う。「論理学」くらいは観たことがあるだろうが。
それで論文が書けるのだろうか不思議に思えて来るが、書き方は案外昔の手習いのように理解できるのかもしれない。
👇のような取り組みは実践的で興味深いのですが、『引用』に触れているように、専門性に足を掛けていて、むしろ高大接続にも関係する、「高度な学習」になってくるのかな、と思います(反対に謂うと、高校生が学ぶべき、基礎的学習とは趣が異なる)。
今学期やった、北村紗衣『批評の教室』を参考に「羅生門」の批評を書く授業、なかなかの労作力作が揃った。自分で切り口を決めて書くというゴールが設定されていることで、ものすごく能動的に深く読むようになるなーと感じる。本に書いてある先にタイトルを決めて縛るというやり方がかなり良かった。→
— すまう(Hitomi Nakajima) (@sumaus) December 8, 2021
最初の3点にもう1点追加するとするとこれで、「評価」はテキストの外部から挿入することはあっても、「引用」と同じではないことです。