『古典は本当に必要なのか』は知らないが古典的ヒエラルキーでは間に合っていない

長くなったので、結論から、


結局、成熟した民主主義社会、自由な市場社会を、先進工業社会、高度情報社会で成し遂げようというのであるから、古典文学というよりむしろ古典的ヒエラルキーでは間に合っていないのが現実である古典文学は古典的ヒエラルキーを支えるイデオロギーの構築物であるとの指摘から始めなけれなならない

ほぼ不毛な企画。

統治>近代化>論理>理論>権利>消費

の順で言語の果たした役割を考える、議論以前のストラテジーが要るんじゃないかな。

例えば、よくあるハナシで馬鹿馬鹿しいので、トピック名も差し控えるが、理論に関して言えば、論理>数学で、数学が集合論を言い換えられるならってことがある。
「理系」「文系」の分岐を歴史的に考察した研究もあるくらいで、なんでそんなに「理系」に拘るのかということもあるが(すぐれた数学者ですぐれた言語学者なども居る。言語と数学はそんなに離れていない、というよりむしろ、「数学」は多認知領域にまたがる架橋構築的な学問体系であって、サヴァンの域になると、言語センスが有利な場合もある。)、歳を食えばくうほどただの「そろばん」ずくのセクショナリズム(による悪羅悪羅という「男性本能」)との思いも強くなるがそれはさておき、日本の古典研究がかなり特殊な地位ということには頷けるものがある。
イデオロギーまみれといってよい。
研究者の「思い」と弄していることは、実はただのイデオロギーである可能性が高いと思う。同じ「文系」でも、古典乃至文学の研究者はかなり奇妙である

源氏物語』にしても仏教の影響、したがって、非仏教のイデオロギー支配に対してどうであったかが当然に背景として考えられるべきと思うが、文脈上関係ないような理解である。

 本当だろうか?

フツウに読んで、『枕草子』(四季)の世界を内に取り込んで、さらに大きな世界観を示していると思うが、なにしろ、『枕草子』が規範的文献と読まれない
「自然」の描写が人間の素朴な感情に訴えかけている「気楽な」書き物として読まれているからだろうが、それはかなり偏った読み方だろう。

「自然」(理解)が(統治の)イデオロギーであるし、そもそも、清少納言はかなり政治的意図を込めて『枕草子』を書いたという経緯もあるとのことである。
そして、文章自体も、かなり練りこまれたはずの『大日本帝国憲法』の構文形式と比較して遜色のない、相当規範形式に則っていると、この法学徒からは読める(そして、それは、明治の建国における法学者の役割を考えると、滑稽な試みではない。ドイツの歴史法学こそ建国に依拠すべき学問だったのだ)。

 では、なぜ、文学者はそのように読まないか

それがイデオロギーの効果であって、イデオロギーが常に言語とともにあるからにほかならない。論理的に読むことを拒否しているのである(或いは、せいぜい「論理」を「文法」に置き換えて、文学の下部に位置付ける野心を隠さない。本末転倒であるが、イデオロギー上、それは「正しい」)。嫌われ者はかくも「嫌われる理由」に疎い者か。
別の言い方をすると、国語乃至文学は、他分野からの挑戦を拒否し続けてきたとも言える。フツウはそれでいいのだが、「日本語を操る」となると、全分野に関係するからややこしい。
少なくとも自己の依拠するイデオロギーに自覚的になってもらわないとはなはだ困るのであった。そしてそのイデオロギーを暴露するのはおおむね他分野からのイデオロギーであるだろうが、それは残念ながら、「理系」の出る幕ではないから、これまたややこしい
「理系」は功利的な社会運営上、悪羅悪羅なセクショナリズムを昂進するだけのことである。弱ったことだ。すなわち「理系」に言えることは「功利的でない」の一点(突破)に過ぎない

ところが、それが素朴な感情によく訴えるのである。
今起こっていることは、学校への教育の一元化であって、なるほどだからこそ塾はまずます隆盛であるが、塾が「社会成員としての資格付与」機能を代替することはない。
学校は「教育機関」としては唯一無二ではないが、「資格付与」に関しては唯一無二になりつつあって、早期選抜がますます進んで行っているようである※。

※これは何の戯画ととらえればよいのか。かつての学生運動の闘士が1点を争う市場化を受験生の「消費者主権」から支えているのである。これが彼らの「反体制」であるらしい。その努力の甲斐があったのか、全人生を左右する受験に全人格をかけて臨むのが「正しい」社会となってしまった。「統一試験」の成し遂げた「統一」は受験の統一ではなく統一された市場社会のことであった。そのような社会に於いて求められる能力は文学的素養ではなく、1字1句を読み間違えないスキのなさであって、それを「リテラシー」と今日読み替える。したがって、「文学の肯定/否定」の問題は、「負けない」ことを教え込んでいた学校が「騙されない」ことを教えることを求められるようになったことの経緯を考えるに過ぎない。

そのとき、各成員の戦略上の効率化が「至上命題」として希求されるのであって、そのとき「理系」の言い分もよく咀嚼されるのである。
要は、市場社会が学校へ投影されているのであるが、それゆえ「理系」もかつてのようなわけにはゆかず、芸術も取り込んで言及されるようになった。

 

結局、成熟した民主主義社会、自由な市場社会を、先進工業社会、高度情報社会で成し遂げようというのであるから、古典文学というよりむしろ古典的ヒエラルキーでは間に合っていないのが現実である古典文学は古典的ヒエラルキーを支えるイデオロギーの構築物であるとの指摘から始めなけれなならない