ほたるは19時半頃から徐々に飛び始めます。
つまり、この時はまだポツポツとしか飛んでいない可能性があります。ここから徐々に数が増えていき、20時〜21時頃にピークとなります。
書紀(720)允恭八年二月・歌謡「我が夫子(せこ)が 来べき予臂(ヨヒ)なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 今宵(こよひ)著(しる)しも」とあるが、
本来は、夜が単にヨヒとアカトキの二つに分けられていたところへ、ヨナカという語が現われ、ヨヒの時間が、中古にはより短い時間をさすようになったのではないかとも考えられる。
夜は〈j-{uə}〉*r(u) であり、変換〈j〉と混合{uə}に*r(u)の接辞(語形)
がついた言葉であるようだ。
そうすると、蛍はやはり、蘇我氏だろうか。
そうでないかもしれない。
「雅」も「自然」実はイデオロギーとわかる。
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『枕草子』の季節感が興味深いとしたら、おそらく対概念(区切りと混合、循環)を用いている所為で非対称となっていることではないかと思った次第。
すなわち、
jk(区切り): 曙(a/k/p *n)/明け(p/t)、夙(t♬) → 循環
kj(混 合): 夜(j *r)、夕(jp)
数に関してもそうだが、文字ではなく音で表現するときに、子音の繰り返し、母音の繰り返しも使って循環を表現していただろうということで、数に関して言えば、「0」は実は標準的に使用されていたが、にもかかわらずそれが「新たな発見」だとしたら、それまでは対概念を用いていたために我々とはちがう収束構造を持っていたからであると思う。
古代の算術でも普通に「0」も繰り上げもあったのではないかと思う。
ただし、収束構造が異なるのではないかと思う(あるいは「収束」がない。「より」近づこうとするけれどーそれでも〈k〉:区切りはある)。
(👇の図で♬は子音の繰り返しを言う)
むしろ重要なのは、「累乗」という概念があったかではないかと思う(それが「収束」に意味をもたらす。インドで「0」が発見されたのが画期的だったのは、それ以前に「根」が発見されていたからだろうと思う)。