天地の生むところ、 日月の置くところの匈奴大単于、敬みて漢の皇帝に問う、 恙なきや

次の老上稽粥単于( 在位前一七四~前一六〇)のとき、漢は匈奴に送る国書に一尺一寸の木牘を用いたのに対し、 匈奴は一尺二寸の木牘を用いて、「天地の生むところ、 日月の置くところ匈奴単于、敬みて漢の皇帝に問う、恙なきや」と書き送ったという。 

沢田 勲. 匈奴: 古代遊牧国家の興亡〔新訂版〕(東方選書48) (Kindle の位置No.No.537-541). 東方書店. Kindle 版.

赤字強調は引用者
匈奴は漢よりも上位であることを外交上示し、漢は「隣国の敵」に対等な関係の維持に腐心したと本文にあって、原典を見てみたいがどこにあるだろう。

1)漢帝室の女を公主(皇女)とし、単于の閼氏として差し出す。
2)毎年漢は匈奴に綿、絹、酒、米などを献上する。
3)皇帝と単于との間に兄弟の盟約を結んで和親する。
形式的には漢皇帝が兄、匈奴単于が弟

「匈奴ー古代遊牧国家の興亡」 - 好きなもの、心惹かれるもの

万里の長城が築かれる元になった遊牧騎馬民族匈奴について目を引いたのが、聖徳太子の文と激似の文章です。』(上掲)とあって、みな感じることは近しいのだと納得するのであるが、それだけではなく一連のやりとりからわかるロジックに興味がある。

これがまさに聖徳太子の「三段論法」の第一段に類似するからだ。
聖徳太子の「三段論法」は、否定形の入れ子構造を為しており、第一段に「大否定(前提)」として従前の世界観の提示、第二段に「小(部分)否定(前提)」として称号の提示、第三段にそれらをひっくり繰り返した新世界観の提示と称号の提示を以て「対等外交」を展開したのだ(これらは対概念の群変換によって説明する古代のロジックに類する※)。
※基準 { ui / u }、補完 { a / ə }、混合 { e ( ia,iə) / o (ua,uə) }
その第一段はまさに「日月の循環による世界」を示して「兄」「弟」を規定しつつ次段に繋がる(そのどちらでもない)中間たる自己を挿入していて特徴的である。
それは匈奴から鮮卑へ至る統治イデオロギーの変遷も背景にあったのではないか。
匈奴は西域を支配したのであったが、漢の滅亡後に西域を支配したのは仏教国家たちであった。
漢は当初世界帝国ではなかった。漢が世界帝国となったのは匈奴の制圧後である。ただし、劉邦統治後に匈奴を打ち破った武帝は、仏教との関係が言われない。

武帝 (漢) - Wikipedia

しかし、いかんせん、支配が安定しなかったのだ。
もちろんイデオロギーひとつで世界支配できるわけではないが、イデオロギーは制度と一体でその説明になっていたのだった(だから他の土着思想や外来思想である仏教とも併存する)。
そうすると反対に「相互統治」ということも可能だったに違いない。
すなわち、漢の制度に乗る分には匈奴「弟」で、匈奴の制度に乗る分には漢が何かしら下になるダブルスタンダードがなんら違和感がなかったと仮定しても不可能ではない。勝ち負けに拘るということが、価値併存的であることの否定であって、価値収斂的であることがこうしてわかるのであった。

 

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「激怒した」であるとか「屈辱だった」という〈心情評価〉表示はほとんど無価値だろうと思う。日本だって、戦前に、「膺懲あるべし」と紅潮したのであるが、それにパフォーマンス以上の意味はなかった。
もちろん、事実としてそういう態度を見せたのかもしれないが、日本だってその当時においてすら同じように激怒したのであるから、どっちもどっちである。
それは評価が中華思想に依拠していることは言うまでもないが、中華思想は古代世界史においてひとつの有力な世界観(と一体になった制度像)でしかない。

匈奴の場合でも、匈奴「弟」というのはいかにも不自然であるが、(戦争の)「勝敗」ではなく(国力の)「盛衰」で動いていた古代世界に於いて、それが都合がよかったからにすぎず(戦争は勝てばよいものではない。)、後のモンゴル帝国ではどうであったかの比較材料を提供するにとどまる。