歴史における属人主義/属地主義

元寇も実は「脅威」だったかというと、注意が必要で、ベトナム侵攻と比較すると見えてくるのは、「侵略」という意味ではおそらく完全に不可能な事業で、ただ、それで無駄化と言えばそうではなく、攻撃によって国力を削ぐことで  することができるので、「恭順」という態度を導く。要は、目的は実質冊封を巡る圧力なのだ(ベトナムはもともと冊封されていたが、統治機構に組み込まれて、要は、支配役人を受け入れるかどうかの争いであったらしい。これは前漢匈奴に支配されていたことを反転する。いろいろな支配形態が在り得たのだ)。

ただし、元は中華化しているとは言え、歴代王朝の中で際立って異文明観を残しているので、「冊封」を指向したかどうかが、「元寇」の本質である。
これは聖徳太子の仏教外交に通じる話で、華夷秩序上の、夷狄の文物たる仏教を信奉する夷狄同士が「冊封」を避けたのであるが、よく高句麗を攻める云々であるとか言われるが、元寇の例を見てもわかる通り、中国は内向きか外向きかであって、外向きのときに順番なんかいちいち気にしないのである。版図を拡大した班超の時代もそうであったが、次々に、同時に侵攻するのが常である。

むしろ、ロジティクスはロジティクスであっても、物理制約であって、航路による侵攻が難しかったのだろうと思う。スペイン/ポルトガル大航海時代でさえ、拠点支配がせいぜいで、地域を支配できるようになるのは、イギリス/フランスの大挑戦時代になってからである。ここにおいても、意外にも、世界同時侵攻が肝なのであった。イギリスは、同時に、世界中で、順序良く戦争をしていたのである。イギリスに限らない。「同時」と「順序」が矛盾するが、所謂「二正面」となって「背後」を突かれない限り「同時」である。つまり、「属地主義」的な戦略であって、「属人主義」的な戦略ではなく、近接戦場においてこの戦闘の次はあの戦闘ということはあっても、あの国の次にこの国というのは、見かけ上のことで、戦場が自国周辺も含んだ、潜在戦域を含むか否かどうかである。これはイギリスとドイツ、ロシアだと顕著になる。フランスのように海一つ隔てた隣国ではないため、そこにロジティクスのリソースを奪われることなく、対外戦争がしやすいのであった。そういった意味では欧州の緊張感は対外侵略のひとつのスパイスだったのである。勝手ににらみ合ってくれて、その緊張が適度に均衡を保ちさえすれば、「第三国」としてそこから離れて対外侵攻に向けられたのであって、「中立国」なのが重要ではなく(属人主義ではなく)、戦域が隣国に波及することを前提として「中立的な均衡状況(パッケージ)」が作りだされた場合に(属地主義ならば)、対外侵攻が可能だったのである。

さてそう考えると、聖徳太子の仏教外交は、そもそもロジティクスから言って、航路による侵略が不可能なところ、戦域から考えて、朝鮮半島と隣国である日本がいきなり戦争に巻き込まれる必要がない。よく文物の航路が、朝鮮半島経由か否かが問われるが、もちろん、当時の潮の状況が最大のエビデンスとなるが※、そもそも戦団輸送と文物の交流は桁が違う。そのうえで、拡大する国家、隆盛を企図するには、統治に必要な文物が求められたのであって、それはともすれば離反しがちな豪族集合体において、朝廷の求心力の問題でもあったはずだから、ただのパーティー外交ということもなく、それなりに真摯だったはずである。
つまり、聖徳太子の外交は、対外的勝利などに特に目ぼしいことはなく、対内的勝利、すなわち支配基盤が脆弱な「鳩派」の実際の施策能力※とそれに根差す求心力、あるいは、シンボリックな求心力の問題だったのであった。

新石器時代は「干潮」時代で、陸路が可能だったらしいが、神話時代は「満潮」時代で、大阪の河内も海の下だったらしい。

※見落としがちであるが、この時代の輸入文物は、「仏教」「儒教」だけではなく、「景教」「陰陽道」「暦法」「数術」「条理制」(並びに「建築関連技術」「陶冶関連技術」ー要は、木・木造木工の技術、火・釜の技術、土・作陶の技術、鉄・陶冶の技術、水・灌漑の技術。反対に謂うと、これらを整理するために、陰陽道同時に、、、必要となる☟次段)などおどろくほど多岐にわたっていたのであった。問題は、都市づくり、施策づくりにこれらが必須だったことである。したがって、侵略されるかどうかはさして問題とならず、統治できるかどうかが喫緊の課題だったと考えてよいだろう。すなわち、「日出処の天子」が恐れたのは、侵略ではなく、第一に外交断絶であり、第二に外交負担であった(冊封される政治的負担。要は、①侵略>②侵略圧力>③冊封>④対等の図式に於いて、①と②が不可能な状況下で、③より④が望ましい。②が直ちに③でないのは、元のベトナム侵攻を見ればわかる。ただし、支配国の役人を置くか、或いはより統治体制に組み込まれるかで、「半侵略」という状況は別に考えられるかもしれず、そういったスライトな差分を巡る外交があったのだ)と考えてよい。

「激怒した」では児戯である。


☞次段

そう考えると、「世界観を持つ」とはこれらすべてをワンパッケージに収めることであって、観念的なファンタジーではなく、実利をうまく説明できる観念並びに実学でなければならなかったはずである。それは科学以前なので、多分に経験的であったに過ぎない。

こう考えて初めて『枕草子』のあの不思議な構成にたどり着くのであった。
なにしろ計算ができる=天才だった時代である。
清少納言の60進法は、明治期の参謀要諦にあった割引現在価値計算を見たときの衝撃に近いものがある。その程度で良かったのだろうか、と思う不安と、教養レベルであって、専門分野は別に確立されて在った安心が同時に沸き上がったのだった。
要は、枕草子』はそういう代物である。

年をとると、こういうことが見えて来る。
文学者は文学専門で見るので(当たり前である。)、どうも自分の信仰に無自覚なきらいがある。
志賀直哉が決して「無宗教」であったはずがなく(所謂GodやBuddhaを信仰していなくても、アニミズムほど素朴ではない。少なくとも『暗夜行路』は明らかに中原思想に根差している。わかりにくいのは、『城崎にて』でヤモリ<イモリ<トカゲなどと言いだすからであった。)、

古代の氏族である斎部(いんべ)氏の由緒を記した歴史書斎部広成(ひろなり)の撰述(せんじゅつ)で、807年(大同2)に成立。祭祀(さいし)を担当した斎部氏が、同様の職掌に携わっていて勢いを強めた中臣(なかとみ)氏に対抗して、正史に漏れている同氏の伝承を書き記したもの。本書は、正確にいうと、斎部氏によって提出された愁訴(しゅうそ)状

古語拾遺とは - コトバンク

志賀直哉はどちらかというと、蕃神に対する愁訴に熱心だっただけである。
ただフランス寄りだったのは、単に、学習院出身だったからではないか。
そういう意味では出自主義で、それは秩序を重んじる中原思想に反しない
(志賀の場合、父との確執があって、一時錯乱していただけであろう。父との確執がなくなったら、自己の信仰を外連味なく開陳する。そうして同じ信仰の者に絶賛される。自分はそういうのに疎いのか、『雪国』を読んでも、正月の帰郷でそういう光景に感動したが、それは教育された感慨であると思ったし、『』、『未来少年コナン』を見ても、普段から自然に親しんでいたが、都会人のエゴだと思ったのであった。山に登って感動するのは、疲れているからが主たる理由であって、二番目は空気が薄いからであって、三番目が大きく、四番目が高く、五番目が光彩の美しさである。それが「悪い」のではない。
それらが信仰に付随するのであって、ピラミッドにのぼっても、エッフェル塔にのぼっても、たいていの人は空の美しさに感動すると思う。
侍だって、ピラミッドの前で写真撮影をしたのだし、ナポレオンだって演説したのである。侍は「魂が抜かれる」と思わなかったし、兵士は異教の神だと思わなかったのである。何か知らないが「すごいな」であって、それ以上の説明が信仰である)