四面楚歌

知らんけれど。
この時代の戦いでは、司馬の話を聞くと、勝つと敗軍を吸収して食わせる(「義務」が生じる)らしいー項羽はそれがいやで、よくコウ(孔に生き埋め)したり、20万人ほど崖から落としたりしたらしい。

自分は項羽の強さもさることながら、中国の、山壁を伝うような決死の山道ってピンとこなかったのだけれど(「漢中」から脱出して「関中」支配に至るポイント)、中国のテレビのニュースを見ると、本当なんだな、と感心する。

〇英雄たちの出自

劉邦(どうも「楚」)
韓信(どうも「楚」)
英布(どうも「楚」)
彭越(どうも「楚」)

みんな楚の中でも北寄りなのであやしいが、楚の南公の『例え楚が三戸になろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚であろう』を受けて范増が云った「陳勝の失敗」をみな、それなりに意識していたのだろうか。
日本では、信長が平氏を名乗った(平朝臣織田上総介三郎信長)一方で、家康はなかなか面倒くさくて源氏(源朝臣家康)だったけれど藤原氏(藤原朝臣家康)を名乗ったりもしたらしいー猟官の(官職を朝廷に求める)関係らしい(源平藤橘)。江戸はもともと浄土宗の「(厭離)穢土(欣求浄土)」からとられらたのではなかったか?ここらへん「征夷」との兼ね合いはどうだろうか。思想的転換としても面白い。

項羽の政治観

項羽は「皇帝」を名乗らずに、「西楚の覇王」を名乗ったらしい(劉邦側の後付けという異論あり)。二か所キーワードがあって、もちろん「西楚」と「覇王」だけれど、なぜ「楚」ではなく、なぜ「王」ではないのか。彼の都市設計も併せて考えると、古代の理想王に範を採っていたのではないか。そう考えるなら、前の時代の「宋襄の仁」のエピソードと比較すれば、面白い☟。「三皇五帝」の時代は禅譲で王権が移動した(天下思想が確立し、易姓革命が許容されるようになったのは、いつか※)。ちなみに、中国史上最初に「覇」を唱えたのが斉の桓公(王ではない。『実力を失いつつあった東周に代わって会盟を執り行った』☟らしい。斉の桓公、晋の文公、秦のボク公、宋の襄公、楚の荘王を春秋五覇と言うらしいが、後ろの3人については、この3人ではなく、「臥薪嘗胆」「呉越同舟」で有名な呉王闔閭と夫差の親子や一方の越王句践が入ったり、入らなかったり。)で、時代が300年ほど下って宣王の時代の、食客三千人で有名な孟嘗君劉邦のお気に入りだったらしい。

〇このときの情勢
・・・

ーわが兵が、こうもおびただしく漢に味方したか
と思ったとき、楚人の大王としての項羽は自分の命運が尽きたことを知った。楚人に擁せられてこその楚王であり、楚人が去れば王としての項羽は、もはやこの世に存在しない。
(中略)
しかし、どういった人々が歌ったのかとなると、繰り返すようだが、わからない。あるいは風に乗ってきこえてきた似たような音律を項羽が聴き間違えたのだろうか。
(『項羽と劉邦』(下)PP328-329)

項羽と劉邦(上)(新潮文庫)

項羽と劉邦(上)(新潮文庫)

 

 『古来、韓信が兵に楚歌をうたわせたのだという説がある。しかし韓信の作戦癖からいえばその奇想はつねに物理的着想で、このように項羽そのひとの心の張りをうしなわせるような心理的効果を考えてのいわば陰気な発想をとるとは思われない』(同P328)
司馬の人物造形では、そのような『陰気な発想』をとることは、陳平に委ねられたようです。


実力を失いつつあった東周に代わって会盟を執り行った

桓公 (斉)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

周の後期(春秋・戦国時代)には、周に封建されていた諸侯が各自の国内・周辺地域に対する政治支配と同化を進めた。また異民族自体が周に封建され、諸侯として大国化する例も見られた。これにより多くの国に共通の文化圏、経済圏が形成され、黄河中流域を中心に「中国」概念も拡大された。『春秋左氏伝』『国語』などには「天下」の用法が確認される。

天下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

天命を受けた天子の中でも功と徳がある者のみが執り行う資格を持つとされ、『史記』そのものには、斉の桓公がこれを行おうとして、管仲が諫め る場面があり、管仲が神農・炎帝から周の成王に至る古来封禅を行った帝王を列挙して説得するという記述があり、これが前述の始皇帝以前の封禅の有無を推論する際の論拠となっている。

秦の始皇帝が皇帝になったのちの紀元前219年に、泰山で封禅の儀を行ったが、このとき既に古い時代の儀式の知識は失われており、儒学者などを集めて封禅の儀式について研究させたが、各自意見がまちまちでまとまらず、結局我流でこれを執り行ったと伝えられている。その儀式の内容は秘密とされており、実際に何が行われたかはよく分かっていない。

封禅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 👆実は、ここらへんの感覚が、鍵だろうと思う(けれど、ないがしろにされがち)。
後代(劉邦の漢以降)には、儒教の様式美が完備されるので、もっぱら形式的になるが、この頃はまだ「生々しい」感覚が生きていたはずである。項羽は、いわば「儒教の国教化」以前の、「王」である(そう考えると、儒教の受容史という側面もある)。

新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。前漢外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に存在する)に封じられたことにより国号を新とした。莽漢とも呼ばれる。

周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず[1]、国内は混乱。また、匈奴高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招く

新 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 👆宗の襄公と並んで、実は項羽(の政治観)を考えるうえで興味深いのは、200年ほど後の人で、新の王莽。『禅譲』を受けて、『周の時代を理想とし』、『国内は混乱』。(前)漢を挟んで二人が並び立つことと、その後の(後)漢が新しい国に脱皮したことが興味深い。