markovproperty.hatenadiary.com
かつて定子を迫害した藤原道長は、罪悪感から怨霊に怯えるようになった。
これである。
実はどうも「怨霊」などと一言で言えるはずのないことで、平安時代に思想上の転換があったらしい。
子孫の祭祀を受けない先祖の霊が祟るというのは日本独自の考えではありません。むしろこの考えは中国的なのです。史記(司馬遷)の魯周公世家には、このような記述があります。
封紂子武庚禄父 使管叔蔡叔傅之 以続殷祀
(周は殷を滅ぼすと、)紂の子の武庚禄父を管叔と蔡叔を後見人として封じ、祖先の祭祀を続けさせた
一方
いわゆる宗教的行為と密接な関係にあったこ とである。それは神の祟りから人の祟りへと発展させることになる。平安文学で はこれらを物の怪として登場させ,特に『源氏物語』においては,単純な怪異現 象,もしくは疫病の流行ではなく,人の心を支配する幻想,幻影へと展開させた のである。この点,紫式部の物の怪観は当時の他の文学作品と一線を画する。
である。赤字強調は引用者。
定子後宮での出来事を記録した文章は、主家を称讃する視点でとらえられています
この「視点」はどのような意図によるものだろう?
『枕草子』に主家称賛の企図があり、思想的背景を持った一種の教書としての「視点」ならば、ここで言われる『視点』と同じだろうか。
紫式部(むらさきしきぶ)は、平安時代中期の作家・歌人、女房(女官)。作家としては、日本文学史を代表する一人。正確な誕生年は特定できないが、近年の研究では、天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、寛仁3年(1019年)までは存命したとされる
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))
以外なのは、清少納言の長命で、紫式部より長生きしている。
それでも法然の登場には間に合っていない。
👇会員でないので読めない。
真言宗のお坊さんであるらしい。
命と闇と光を説いたらしい。そして、水が最初にかられ、日ではなく、火であることが特徴である。
清少納言と紫式部の前には、空海、最澄らが居て平安仏教を興し、奈良仏教からの転換を図った。
民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教や鎌倉仏教とは異なり、これらの六宗は学派的要素が強く、仏教の教理の研究を中心に行っていた学僧衆の集まりであったといわれる。つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う程度であったといわれる。但し、唐に渡り玄奘から法相宗の教理を学び日本に伝えた道昭は、このような国家体制の仏教活動に飽きたらず、各地へ赴き井戸を掘ったり橋を架ける等をして、民衆に仏教を教下する活動を行ったとされる。尚、同じく民衆への教下活動を行った行基の師匠も道昭であったといわれる。
平安仏教が隆盛になる中でどう考えればよいか。
一条天皇も取り上げられている👇あたりが詳しいだろうか。
古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、一般に現存する日本最古の歴史書であるとされる[1]。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し[2]、元明天皇に献上されたことで成立する
『日本書紀』(やまとぶみ[1]、やまとふみ[2]、にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。養老4年(720年)に完成したと伝わる
古事記/日本書紀
+50年→空海/最澄
+200年→清少納言/紫式部
+100年→法然
なんとも気の長いハナシである。
「古事記」「日本書紀」の神話、すなわち記紀神話には既に仏教の影響も入っていて、天皇の権威を確認する国家神話としての面が強く、とても現在の記紀神話をもって、仏教渡来以前の日本の古層とは考えられない。
つまり、清少納言の「枕草子」が或るイデオロギーに拠っているとして、それが中原思想寄りなのか、密教(仏教思想)寄りなのか、判断が専門的になって素人にはなかなか難しいのであった。
ただ明らかなのは、清少納言と紫式部の拠ったイデオロギーは「違う」ということである。
真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり
こうやって見ると、江戸時代の赤穂事件を思い出すのであった。
かなり明確な思想上の対立があったようである。
『枕草子』の意識したものは『史記』『古今和歌集』らしい。
『源氏物語』は記紀を継ぐ意欲作だったと勝手に思っているが、『枕草子』はそうでなかっただろうか。
『史記』「五帝本紀」に於いて五帝を一応歴史の範疇内に置いた司馬遷であるが、「黄帝伝説は史実とは思っていないが、黄帝伝説のあるところに限って共通の民俗風土があり、いくばくかの史実が紛れ込んでいることは否定できない。よって、これらを記録することに価値を見出すものである」と断りを入れている。
『史記』とはこういう意図で書かれたもので、「蒲団と枕」などという駄洒落は中世の人を馬鹿にしすぎだろうと思う。
〇父の遺言により執筆(家業)
〇「空事」より「行事」
〇漢帝国宣揚
〇にも関わらず、しばらく秘匿(武帝までを描いたが、武帝批判)
〇儒教の官学化以前
〇黄老思想(特に、道家思想)優先
〇紀伝体
〇民間の人物登場
である。
神や霊を召喚するために頭を乗せる意味で「真座(まくら)」などがある。
日本の古墳時代には、古墳の被葬者に対して、埴製(例、燈籠山古墳)・石製・琥珀製(例、竜田御坊山古墳)など多様な材質の枕を用いた。これらは権力者の文化であり、死者に用いる枕文化である。
清少納言と紫式部の居た当時の状況を考えると、当然この観点だろうと思う。
そしてそれはもちろん、定子に献上する、一定の政治意図があった。
紫式部は記紀の正統(仏教思想を織り込み済みで。)たろうとしたと勝手に思っているが、清少納言はそれに別の世界観を提示することで思想上対抗しようとしたのではないか。
「春はあけぼの」などは古代思想ではないが、新しい外来思想でもない。
中原思想と密教(仏教思想)に或いは共通する世界観にあって、また古今和歌集にあって、万葉集にない世界観とは何であったか。
やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける
「ますらをぶり」「たおやめぶり」とはなんだかピンと来ないと思ったら、賀茂真淵が言い出したことらしい。どうも日本の「教科書」はイデオロギーを無視しすぎてよくわからなくしてしまっているきらいがある。賀茂真淵を無視して理解できるはずがない。
また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿であるとして、古道説を確立した。
要は、仏教、儒教を排したかったらしい。なぜそれが「たおやめぶり」になるかよくわからないが、おそらく「みやび」だったのだろう。
賀茂真淵の紫式部への評価を聞きたいものだ。
賀茂真淵は『源氏物語新釈』で「そのよしあし自然に心よりしられて男女の用意となれる事(男女の深い心づかいとなっている事)、日本の神教そのものを以て風喩する(思いをよせている)也」とし、好色の文学であるという論を批判しています
弟子はこう言った。
本居宣長は寛政2年(1796年)に『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』を刊行したが、中野等によればこの書名は「中国・朝鮮を西方の野蛮(戎)とみなし、これを万国に照臨する天照大御神の生国である我が国が「馭めならす」、すなわち統御すべきものとの立場による」という
これを「日本中心主義」と考えるとしたら「近代的病」であって、中原思想ゆえの中華思想である。本当の「古来」は中原思想ではない。国学の限界であろう。
『枕草子』をもっとよく説明するのは「献上」に込められた秩序意識だろう。
それは『源氏物語』と社会を二分するほど揺れていた思想上の問題を胚胎していたらしい。それについて賀茂真淵はnear missだっただろう。
江戸時代の怨霊観
【メモ】確かにすごい人形で、聞くところによると1体500万の評価額らしい(辻村寿三郎製作玉梓)。