「みやぶ」こと自体「いこよか」なのである

 

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大王(きみ)は風姿(ミヤヒ)岐嶷(いこよか)にまします

雅とは - コトバンク

雅の意/語源/雅な人の特徴5つ/用例3つ/雅な仕事とは-社会人常識を学ぶならMayonez

清少納言の周辺に起こった何か過酷な事情を、同じ時代を生きた紫式部は知っていた、そして彼女の常識で判断する限り、その過酷さは、風流だの趣だのの入り込む隙などない絶望的なものであった。だが、そこにおいて清少納言は、紫式部が指摘したとおりに、美や光や笑い、感動やときめきばかりを書いた。彼女の性格のなせるものという見方もあろう。実際に、無意識による部分もあるだろう。だがそれだけではない。これは清少納言がはっきりと意識的に採った企て、いや紫式部の側からすればたくらみだった

清少納言が『枕草子』を書いた本当の理由・・・【情熱の本箱(195)】 « 榎戸誠の情熱的読書のすすめ

「風流」は「みやび」だったのであって、「新知識」だったのだ。
その「新知識」はもちろん「真名(漢字文化)」であって、イデオロギーだったのだ。

由来・出典 日本では万葉集に拠る記載がある。 「みやび」と和訓が振られ、「好き心」などの意味も有した

風流 - ウィクショナリー日本語版

つまり、紫式部清少納言を「原理主義」或いは「極左」と批判したのである(平均的な感覚からすると、外来思想に拘るのが「極左」であって、在来思想に拘るはずの「極右」ではないと思うがどうだろう)。

つまりここで捩じれている☟。

 中原思想(後に中華思想となる。)に立つか、仏教思想に立つか

いずれにしても外来思想である。

末法思想が広まり、浄土教が特に貴族層の間に浸透したとされる時代において、『枕草子』の中に極楽浄土への往生志向は見られない。清少納言の価値観は現世利益志向である。

日本民俗学と古典文学 『枕草子』の中の仏教 | IRDB

前段はよいが、『現世利益志向』ではなく、高天原信仰ではないかと思う。
だから、山本淳子の指摘は鋭い。天皇を名指しできているからである。

これらを見ると、経典や仏に関する知識がそれなりにあることが推測されるとともに、当時流行の浄土思想へ安易に流れていないあたり、確固たる思想や信仰を持っていたところも見て取れる。

清少納言曰く「坊主は○○なほうが良い」? – クイズ専門情報サイト QUIZ BANG(クイズバン)

大日本帝国憲法前文

 朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ

 朕祖宗の遺烈を承け、万世一系の帝位を 践 ( ふ ) み、朕親愛する所の臣民

誰が起草したか知らないがすごい文章である。
現代のわれわれは〈が〉〈は〉をよく見るが、〈〉はなかなか見ない。むしろ幼児言葉になってしまう(この憲法天皇から授けられたことになっているが、これは論理上留保してよいのではないかという考えができないか考えているーつまり論理的示唆である〈は〉論理的包含である〈が〉と第三の論理的符号である)。この3つを同時に使いこなすこの起草者は論理的に天才的な仕事を日本語を十分理解したうえでなしたに違いない。
そのうえで各条文を見るとみごとに〈は〉で統一されている。

👇は日本国憲法前文である

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらはいづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

フツウに読めば日本国憲法の自己拘束文であって、「自己拘束の法理」は、明治憲法下においてもよく議論されたことである。
そしてこのような文だから、占領(国)憲法としての「アメリカ押し付け論」が根強い。要は大日本帝国憲法前文との比較で言うならば

 我々日本国民が

ではないのである(その効果として、日本国憲法の中にパッケージされている)。
さて、清少納言である。

 春はあけぼの

当時の文章に於いてこの文体がどのような意味合いを持っただろう。


☞日本の政治を考える時、大日本主義/小日本主義は意外に便利である。
小日本主義とは謙虚な物言いであるが、要は、「モンロー主義」(対外秩序切り捨て)である。大日本主義とは対外的秩序、、に対して積極的な姿勢である。
ここで「極左」と呼んだのは、大日本主義のことであり、実際に対外的に撃って出たことを指示するのではなく、秩序意識のことである。中原思想、高天原信仰とはそういうことではないかと思う。結局、中原思想は中華思想となるのである。
だから戦前の日本はややこしい。
「文系」が「経験主義」であって「科学主義」でないのが本質的に重要なのである。
諄諄と考えないと、あっけなくも誤解する。