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なかなか仏教世界の上下関係がわからないが。
日出處天子致書日沒處天子無恙云云
『日出處』に関しては
日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である
遣隋使-Wikipedia
ということであるので
帝釈天 たいしゃくてん Indra インドラ ī イー 東
東の天子と言えば、帝釈天、西の天子と言えば、水天らしい。
ただ、帝釈天、水天を「天子」と呼ぶかどうかであるが、
十二天のうちでも、日天(日天子)と月天(月天子)は「天子」と言われるらしい。
このうち日天が観世音菩薩で、月天が勢至菩薩である。
ところが実は、こういった事情がある。
阿弥陀如来なら格上である。
そうなると、本当に「天子」で怒ったのか、微妙である。「如来」で怒ったかもしれない。どうも、隋の夷狄出身がないがしろにされている。夏(華)出身ではない。
仏教は年代も重要で、阿弥陀如来は天台宗のご本尊であるが、いつごろ中国へ伝わったか。
遣隋使から200年も下っている。
本体は焼損して今見られるのは模写だが、阿弥陀如来の濃い隈取や脇侍菩薩の姿や装身具などは、中国の西域、それを受け継いだ唐の画法の影響を受けていると言われる。
法隆寺のご本尊は薬師如来だが、阿弥陀如来は知られていたと考えて差し支えないだろうか。
一つは7世紀に流布した特徴的な図像である「阿弥陀仏五十菩薩像」の造像背景あるいは来源を探ることである。これについては、前年度までの調査実績も合わせて、日韓中の関連作例を広く調査できた。合わせて、中国南北朝末期~初唐にいたる北朝地域の仏教活動に注目し、いわゆる末法思想の興起や、それに伴う様々な造像活動を調査した。
KAKEN — Research Projects | 7世紀東アジアにおける阿弥陀如来像の研究 (KAKENHI-PROJECT-09J05951)
ただ、「天子激怒説」を却下して、「如来激怒説」をとると
漢訳では、因陀羅・釋提桓因・帝釈天・天帝釈・天主帝釈・天帝・天皇などと書かれ、特に仏教における帝釈天の名で知られています。
【英語洋書】 「リグ・ヴェーダ」のインドラ (帝釈天) 賛歌 『The Indra hymns of the Ṛgveda』(by J. Gonda) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」
インドラがヴァルナにご挨拶するよ、お元気ですか。
むしろ、薬師如来から阿弥陀如来にごあいさつするよ、お元気ですか。
仏教で、東方の浄瑠璃(じょうるり)世界の仏をいう。
こうなると、「如来激怒説」でも趣が変わって来る。
よくわからないと思っていたら、
明星天子まで加えて、高天原で合体している。なぜかね?
もしかしたら、隋の煬帝も、紫式部が清少納言に怒ったように、いい加減ぶりに怒ったのかもしれない。なにしろ、初対面で、指導が入るくらいだ。
開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之
遣隋使-Wikipedia
「此太無義理」と言われたが
後漢末期から南北朝時代にかけての中国では戦乱によって多くの人々が故郷を離れて流浪し、それまでの血縁・地縁による結合が解体した。折しも仏教の中国伝来と重なる時代であり、大乗仏教が持つ利他思想と他者と結びつく・救済するという中国の義の観念が融合して、同じ仏教徒の間で血縁や地縁を越えて共同して造寺・造仏・慈善事業が行われた。
東晋の支遁(しとん、314年 - 366年)をはじめとし、漢訳仏典を解釈し、さらに独自の教理体系を築いていく際に、この中国伝統思想の重要な概念語を重用した。その場合、「理」は普遍的・抽象的な真理を指すことが多く、特に事(個別的具体的な事象)と対になると、現象の背後にあって現象を現象たらしめている理法を意味する。 特に唐代に盛んであった華厳(けごん)教学では、「理」は最も重要な術語である。理は「事」と対比的に使われ、理事無礙(むげ)は、普遍的な理法と個別的な事象とが一体不可分で、矛盾なく調和していること
「義」「理」はなるほどそうか
未生無(みしょうむ)、 已滅無(いめつむ)、 不会無(ふえむ) 、更互無(こうごむ)、畢竟無(ひっきょうむ)とあって、どれかね。
「合理」か「義理」かではなくそれが「太」(はなはだ)しいのであるが、「義理」としたらそれは原理であって、「太」で修飾されるようなことではない。
「俀王以天爲兄 以日爲弟」ということであるので、家族構成を見ると、梵天(兄)、明星天(俀王)、日天(弟)ということだろうか。明星天は虚空蔵菩薩、地蔵菩薩で、一方地蔵菩薩は地天らしい。
それで弟が出庁したら引き継いで任せるというところで、何か知らんが指導が入った。どうもややこしいことを言ったのがよろしくないらしい。
そこでもう少しシンプルに誤魔化して「天子」でまとめたらなおさら怒られた。
仕方がないから教えてやる、とばかりに
「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)
倭の始祖、王の中の王だろうが、ワシは、皇の中の皇だ。
さて、ここで躓く。
漢代に至り儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり
「天子」で怒るのは不自然で、彼らは仏教徒なのだ。
中華思想では、皇帝は地上(天下)の支配者として天命を受けた者(天子)であり、周辺諸国の君主よりも上に立つ者とされた。皇帝と周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。
だから👆もなりたたない。
そこを突いたのではなかろうか。
すなわち、中原思想と仏教思想の矛盾を徹底的に突くロジカルな戦略でなかったか。
①最初は、天を兄とし、日を弟とし、自分はそのいずれでもないとした。
②次に、東の天子/西の天子とした。
③次に天皇/皇帝とした。
❶最初は中原(中華)思想の排除を、
❷次に仏教思想の導入を、
❸最後に、男女を名乗った。つまり、皇帝でも皇でもなく、すなわち王でもない。それらはすべて男性であるはずである。
一方で伝統的に皇室と結びつきが強かった天台宗(台密)では、薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国の帝たる天皇と結び付けられもした。
これだと前後が反対になる。聖徳太子が結びつけたことを尊重したなら成立したが。
「仏性は何か」と考えると、「男の象徴」となるわけです。それを「丈夫(じょうぶ)の相」と、こういうふうに。「大丈夫だよ」という、その「大丈夫」という言葉は、「偉大なる男」という意味ですよ。「大丈夫だよ、大丈夫だよ」とよく使いますが、あれは偉大なる男という意味です。ですから「丈夫の相」というふうに、この大乗経典には、今ここでテーマにずっと使っております新しい『涅槃経』には、「丈夫の相あり」と。男というものの特徴を持ったものが書かれてある。いわゆる「それは仏性なんですよ」こう書いてある。つまりこの新しい『涅槃経』は、これは男の特徴というものを教えてあげよう、と。それは何かというと、この経典が説いている仏性のことですよ、といって、これはここの『涅槃経』のブッダがそう説いたわけですね。つまりこのブッダは、釈尊そのもののように考えますけども、実は作者がこういうふうにして筆を入れているわけですね。つまり男性が優性であり、女性は劣性であるという考え方をもとにして、この仏性というものを、男として考えようとして説いたものですよ。ですけども、六回までのお話したものの中では、男女関係なく平等だ、とこうきました。しかし本音のところでいうと、「仏性というのは、男ですよ」と言って、そこで女性に対して蔑視するような表現がここに出てきて、こうなると釈尊がそう説いたのか、と、こうなりますよね。ですけど、これは何度も申しますけれども、釈尊の教えではないんですね。つまり釈尊はそんなことはどこにも説いていないんです。これは紀元後の四世紀頃に書かれたお経の作者が、このようにして付け加えて、女性というものに対する蔑視、差別観、そういうものがここに表れたもので、実際はこういうものは書く必要はなかった筈ですけどね。
赤字強調は引用者
薬師如来の「丈夫の相」を導入して画期としたのだろうか。
女(にょ)を転じて男(なん)と成し、丈夫の相を具して成仏せしむること。
結局、よくわからない。
ちなみに、公式見解は👇のとおりだろうか。
『日本書紀』には遣隋使、隋という文字はない。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)」との文言があり、没落を表す日没する処という表現は隋の煬帝(開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた。なお太子の使った「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする。)。また、「天子」という表現も天子とは天帝の子である皇帝を意味するとしてきた隋側には許容できないものであった。この国書は俀國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の俀國と結ぶ必要があった