漢字の伝来以前の中原思想

 

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中原思想が把握しにくいのは、

〇後の中華思想との分別が曖昧。

中華思想儒教の区別が一般的でない。

〇漢字の伝来と儒教の(伝来はわかっても)伝播の関係が判然としない。

からではないかと思う。

氏は、唐の道世の『法苑珠林』によれば、妹子が帰国したのちも会丞はとどまり、「「学問」して「内外」(世俗と仏教)を博く学んだ。唐貞観五年(六三一)に還ったという。……遣隋使犬上御田鋤らに伴われたのであろう」と述べます。

 

倭国の官人の仏教知識(研究に必要な仏教知識と検索法):上川通夫「六、七世紀における仏書導入」 2021年09月26日

聖徳太子研究の最前線

ここで言う『俗』が何かということで、

中国から漢字が伝来する以前に日本には固有の文字はありませんでした。人々は神話や伝説などを全部口伝えで伝えていました。日本列島において漢字が本格的に使用されるようになるのは4世紀末から5世紀初め頃で、漢字に出会って約1600年の歴史です。

漢字の歴史|漢字について|樂篆工房|福島県喜多方市

1世紀ごろから漢字を知り、固有の制度として公式に使用するようになるのが👇

5世紀ごろになると,日本で制作された鉄剣や銅鏡に,日本の地名や人名が漢字を用いて記載されるようになります。稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣の銘文には「乎獲居(ヲワケ)」「意富比垝(オホヒコ)」という人名,「斯鬼(シキ)」という地名が刻まれています。

漢字はいつから日本にあるのですか。それまで文字はなかったのでしょうか - ことばの疑問 - ことば研究館

忘れてしまったが、「金印」の時代のころは、もっぱら大陸からの使節の到来を待っていたのだったか?渡航するには漢字を知らないわけにはゆかないだろうが、応対する分には、何かしら意思疎通もできたのだろう。
お礼に物産、奴婢などを贈呈していたなら、そのロジティクスがどうなっていたか気になるところである(これは聖徳太子のいわば「対等外交」にも関係してくる)。小野妹子の時代だって命がけだったはずであるが、たまたま地球の都合で、潮の干満が渡航しやすい時期だったのだろうか。
最近の歴史は、物理学、気象学、疫学、要は、地政学軍事学のもとにあるから、大変である。その代わり、これが適当に進むと、思想性を相対化できる利益に与れる。

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思い出すのが、清少納言の評で

要は、清少納言は『俗』に拘ったのであった。