遼河文明の末裔と夷華同一

 

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厩戸王聖徳太子)が隋の煬帝に云々して何か問題があっただろうか。

遼河文明 - Wikipedia
夏家店下層文化 - Wikipedia

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そこで隋の煬帝のプロフィールを見ると

楊堅 - Wikipedia

漢民族を自称したが、鮮卑族もしくは鮮卑族との混血の可能性もある乃至高い。
〇確証はないが、隋は遼河文明系の異民族国家であった。
〇九品中正法を改め科挙を始めるなど、門閥勢力を抑え、中央集権を確立した。
〇開皇律令を公布した(三省六部。郡を廃して州・県を設置)。
〇貨幣の統一、均田制(租庸調制)、府兵制を施行した。
厩戸王聖徳太子)が5度遣隋使を送った。
高句麗遠征を3度行い、4度目を計画した。
突厥には長城を修復して備え、西域を平定した。
仏教治国策を施行した。

これだけ並べると、よくできたなと感心する。
同じように異民族征服国家で、秦や元と比べたくなる。

中国の全土を見渡すと、元の国土の内側で最も生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。江南は、元よりはるか以前の隋唐時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっており、江南を併合する前の1271年とした後の1285年では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ている。[22]
江南の農業収穫を国家が効率的に得るために効果をあげたのは、国家直営の田地で、単位面積あたりから通常の税収に数倍する収穫が得られる奴婢を用いた官田の経営であった。官田は南宋の末期に拡大が進んでいた

元 (王朝) - Wikipedia

ただし、この14世紀には折しも小氷期の本格化による農業や牧畜業の破綻や活発化した流通経済に起因するペストのパンデミック元朝の直轄支配地であるモンゴル高原や中国本土のみならず全ユーラシア規模で生じており、農村や牧民の疲弊は必ずしも経済政策にのみ帰せられるものではない。

元(王朝)-Wikipedia

この過程を単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉えることには問題がある。まず、華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られたことによって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があったことである(朱元璋がまず華南平定に力を注いだのはこうした背景がある)

元(王朝)-Wikipedia

赤字強調は引用者。最近の歴史は立体的で難しい。
後代の元でさえ、4度のベトナム(大越)侵攻は成功していないのである(もともと中国王朝に冊封されていたにも関わらず)。海路による侵攻はそもそも困難を極めたのではないだろうか(ただし、おかげで大越は国力が疲弊してフビライ死後に滅んだ)。

そうすると、厩戸王聖徳太子)の国書はそれほど無謀だったろうか。
攻められる心配などほとんどないのに、なぜ、怯えなければならないのか(ただ、国使は死ぬほど怯えても不思議ではない)。
「日出る処」の言葉を支える思想は当然に中原・中華思想だっただろうか?
他方、異民族国家であり、科挙を始めた隋は、漢の末裔を自称しているが、正統だろうか?
科挙」とはただの試験制度ではない。(☟考察)

西晋滅亡後、いわゆる五胡といわれる北方異民族が中国本土に侵入して相次いで国を建て、混血が進んだことから「中華思想を越え、中華と夷狄も平等だ」という、仏教に基づく「夷華同一」という思想も誕生した。[要出典]

隋の煬帝や唐の太宗は中華と夷狄の融合政策を取り、唐の太宗は630年3月、中華皇帝に加えて四夷の族長たちに推薦された形でハーンの位にも即位している。

中華思想 - Wikipedia

仏教の平等思想は革命的であったということだろうか?
紫式部に与えた影響をあらためて考えてしまう

自分にはさっぱりわからないが、世の中広くて、詳しい方もいらっしゃる。

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聖徳太子はチーズ(蘇)を食っていたらしい。醍醐天皇の「醍醐」はそれよりもっとおいしいものだったらしい。

蘇は醍醐を製造する前段階の乳製品

醍醐 - Wikipedia

醍醐天皇 885年2月6日〈元慶9年1月18日〉- 930年10月23日〈延長8年9月29日〉

現在に至るまで臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といった。

醍醐天皇 - Wikipedia

律令 - Wikipedia
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格式 - Wikipedia
延喜格 - Wikipedia
延喜式 - Wikipedia

王朝国家 - Wikipedia
寛平の治 - Wikipedia
延喜の治 - Wikipedia
天暦の治 - Wikipedia

平安中期は、(儒家と法家による)律令体制が崩れて、「王朝国家」建設期だった。
どうも「教科書」はイデオロギーを軽視しすぎてよくわからない。
新しい国家建設には新しいイデオロギーが要る
(ただし、隋の煬帝がそうしたように、律令制と仏教施策が相反することではないよう。)

寛平の治は、王臣家が諸国富豪と直接結びつくことを規制することで権門(有力貴族・寺社)を抑制

寛平の治-Wikipedia

賀茂真淵の称賛した「ますらをぶり」とは真名(漢字)と権門の時代のことだっただろうか。


☞長くなったので、次回。