「勅撰」とは「(施政)教書」「(欽定)憲法」

 

上のようなことがなぜ、大事かと言うと、制度はもともと混然一体となっていたところ、必要に応じて整理されてきたことがわかるから。

 

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これが素晴らしすぎる。

【メモ】日本語の理解がおぼつかなくてうまく言えない

清少納言紫式部の対立は、後世の「赤穂論争」と同じく、或る事件を直接の契機として起こったが、直接適示された問題は訓詁学上の解釈論でありつつ、当時の社会不安を背景にした、統治思想を巡る秩序論争であった。

〇「勅撰」とは統治原理を定め、明らかにする「教書」(constitution)の役割を果たした。

三大教書|証券用語解説集|野村證券

〇ロジックに接辞の果たした役割が大きかった。方向を決める思想と方法を決めるロジックの組み合わせで〈訓む〉ことが行われた。

〇「四季」は当たり前のことではなく、中国からの外来思想であった。

SHELLY「日本人は四季を感動させたがる」 | WEBザテレビジョン
https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/10809/toyoda02.pdf
夏 (三代) - Wikipedia

〇「中国」は、ともすれば、北京原人黄河文明から考えて、古代社会に於いて常に先進地であったと思いやすいが、思想上、古代において「中原」は(日本より進んでいたとはいえ)より南方の地域から遅れた面もあった、新進地域であった。(明治期のドイツのような地位)。

長江文明 - Wikipedia百越 - Wikipedia南アジア史 - Wikipedia

〇理想とされた「古代」は、中原思想(中国思想)による国造りが行われた「新しい」時代だった(それ以前には、別の世界観があった)。

〇中原思想は、おそらく、明治期にあらためて「復古」された(整備された。ここで強調されるのは、よく指摘される皇統譜そのものではなく、それをささえた中原思想)。

※インドの文化的優越のひとつの痕跡

支那」という呼称は、中国最初の統一帝国である「秦」(Chin)に由来するものであり、シナ(インド)に発し、支那(中国)、China(西方)を経由し、支那(日本)に伝わったものである(23)
(23)前掲「近代日支文化論」、一三五頁

P84 第二次幣原外交期における中国の国号呼称問題 : 「支那共和国」から「中華民国」へ(研究)/紅 于/お茶の水史学46巻, p. 79-108, 発行日 2002-11

インド由来説の根拠は、論文の註(23)を見ると

1   )  高島俊男「「支部』は蔑称ではない」『諸君』、一九九四年十二月号、一六〇頁
2-1)  「蔑視性覆る?」『東京新聞』、一九九五年二月九日
2-2)  「『シナ』語源は『支第城』ー中国の学者は新説発表」『毎日新聞』、一九九五年二月十一日

なので、これをどこまで信じるか。『諸君』などでは何が引用されたか。

評論などで日本語、漢字、漢文訓読文について述べている。

高島俊男 - Wikipedia

👇名著の誉れ高く、明治の息遣いを論評できるが、「男桃尻語」のような気がしないではない。

高島先生は井上毅のことはどう思っていたのだろう?
「男桃尻語」では解読できない。
「桃尻語」は女性だけのものではなくまた、反論理的理解への企図が最大の特徴だっただろうか。ただ、これはまさに〈訓み〉であって「なるほど」と思った。

👇菅原道真が拠り所とした「勅撰」思想の源流


一言で言うと、日本は二千年「良い加減」だったし、中国は五千年「開き直って」いたんだね。

なんとまぁ、奥深い。

ここに大日本主義/小日本主義の奔流を見ると、普遍主義と様相主義、すなわち、「世界〈は〉こうなっている」と教条的に打ち出すか、「世間〈が〉こうだから」とあれやこれやと云々するかで、厩戸王聖徳太子)がどういった立ち位置だったかから、元禄の政争、明治期の論争までの一貫した見方を提示できる。

ただ、これでおおむね日本史が概観できるかと言うと、あと内戦のロジックも要る。